別なく、如何なる場合にも、「ゆかしく、凜々しい」ものでなければならぬと信じます。

[#7字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

「嗜み」の最も厳しい日本的性格は、如何なる場合にも、「不覚をとらぬ」といふことであります。「不覚をとる」といふ意味は、武士の戦場に於ける不名誉をはじめとし、何人たりとも、油断のため失態を演ずることであります。卑怯未練な振舞はもちろんのこと、用意周到を欠いて、いざといふ時あわてふためくが如きは、これみな「不覚」のいたすところで、それぞれの立場に応じ、分に従ひ、何時《いつ》どんなことが起つても、自若としてこれに立ち向ふことのできる準備ができてゐて、はじめて、「不覚をとらぬ」ことになるのであります。
 これがため、心胆の錬磨、技能の熟達、細心の注意、特に名を重んじ、恥を知ることが必須の要件であります。
 およそ日常生活のあらゆる「嗜み」は、最後はこの「不覚をとらぬ」といふ一点にその目標をおいてゐると云つてもよく、それといふのも、めいめいが「自ら恃むところ」あるを期して深く己を戒め、男は男たり、女は女たるの「矜り」を全うすることが、日本人の生き甲斐であるからであります。
 そこで、この「不覚」といふ言葉が、元来、精神のたしかでないこと、「思はず知らず」なにかをしてしまふこと、を意味しながら、そのことに対して、自ら責任を負ひ、罪を被るといふところに、峻烈苛酷な日本的道義の精神があるのでありまして、「うつかり」してゐたとか、気がつかなかつたとかいふ口実によつて、当然罪が軽くなるやうに思ふ風習は、頗る「嗜み」のない話で、「不覚」の一言は、常に冷汗三斗の思ひとともに述べらるべきものであります。
「用意周到」は、さういふわけで、「不覚をとらぬ」ための大切な心掛けですが、それと同時に、もうひとつ、不覚をとらぬ「嗜み」としてこれも是非、今日のわれわれが考へなければならないことは、よい意味の「強情我慢」といふことであります。

[#7字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 いかに用意周到であつても、人は何時《いつ》なんどき「不意をくふ」ことがないと保証できません。更にまた、思ひもよらぬ困難、想像以上の苦痛に見舞はれ、或は、激しい衝撃によつて恐怖に襲はれるといふやうな場合、これに抵抗する力は、誰にでもおのづから具はつてゐるとは云へますまい。さうありたいものですけ
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