ければならないのであります。
 この問題はこれ以上詳しく述べる暇はありませんが、要するに、「家庭」の新しい秩序は、「家」の精神を正しく現代に活かした、家族一人々々の分を弁へた嗜みによつて保たれるわけであります。
 家庭の秩序といふことは、かういふ家族同士の関係のみを指すのではありません。なんと云つてもそれが土台にはなりますけれども、それ以外に、家庭生活の日常の営み方、普通に家事とか家政とか呼ばれてゐる主婦の仕事を中心とした一切の家庭の問題の処理が、如何に秩序立つて行はれてゐるかといふ問題があります。
 この点については、今むしろ各方面で云はれすぎるくらゐ云はれてゐることでありますが、その場合に、これをたゞ、生活の合理化とか、科学化とか、さういふ観点からのみ取りあげ、または、消費生活の規正といふ名で、計画的に生活水準を引下げることが、当面の急務といふ風に喧伝されてゐます。もちろん、その何れも、それだけとしては異議のあらう筈はありません。
 しかしながら、国民の総力を最高度に、しかも、永続的に発揮する態度を備へなければならぬ今日、あまり性急に、ものの一面だけを考へて事を運ぶといふことは、注意しなければならないことであります。つまり、角を矯めて牛を殺すといふ結果に陥りやすい。
 日常生活は、如何に科学化されても、科学化されるだけでは、それは「生活」とは云へない。金品の消費を極度に節約するのはよろしいとして、節約によつて、「生活」に欠くべからざるものまでを失ふといふことになつては、これは一大事であります。
 それには、「生活」といふものの内容を細かに吟味し、日本人としての「生活の拠りどころ」をはつきり把み、苟くも、日本人たるの「矜り」を傷つけ、国民としての質を低下させるやうな「生活」にまで自分たちを追ひ込まないやうに心掛けねばなりますまい。
 こゝで、物質の欠乏をある程度まで精神が補ふといふ実例をあげて、「生活の秩序」とは、かくの如き心構へと方法とから生れるものだといふ結論を得たいと思ひます。
 幾組かの家族がありました。それぞれ子供がゐて、近頃は洋服がなかなか間に合はない。一軒の家だけでは、どんなに工夫をしても、順繰りに下の者に譲るといふことさへできません。そこでこの幾組かの家族が、共同で、子供の被服類をお互に融通したり、交換したりする組合のやうなものを作つたのであります
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