。十六になる甲の家の娘の小さくなつたスェーターを、十四になる乙の家の娘が譲りうける。乙の家の中学を出た男の子の制服が、丙の家の今年中学へはひる丈高のつぽの子に丁度いゝ。かういふ工合にして、消費の節約と物資の活用とを実践してゐる話が私の知つてゐる範囲にあるのです。
生活を秩序だてるといふことは、近頃の言葉で云へば、生活に計画性を与へるとでも云ふのでありませうが、これは、一家の主婦だけの力では、すべての解決は困難でありませう。どうしても、主人の英断と協力が必要になつて来ます。そのうへ、以上の例でもわかるとほり、生活の協同化といふ一つの新しい試みが、十分の用意をもつて企てられなければならないのであります。
最後に、私は、生活上の「秩序」として、すべて「かまける」といふことがないやうに、常に心の余裕、ゆとりをもつことが大切だといふことを附け加へたいのです。余裕とは決して、心の緩みをいふのでもなく、骨惜しみを指すのでもありません。これこそ、家庭生活を味ひあるものとするひとつの要素であるのみならず、この「味ひ」のないところには、「秩序」も真の「秩序」となり得ないといふことを、とくと申しておきたいのであります。
[#7字下げ]九[#「九」は中見出し]
家庭の「嗜み」についてはこれくらゐにして、次は、社会生活全般に亘つて、日本人の「嗜み」がどんな形で現れてゐなければならぬかを述べませう。
わかり易いところから、先づ、「身嗜み」について申します。
「身嗜み」は、女に必要であると同時に、男にも必要であることは云ふまでもありません。しかしながら、女の粧ひは、女にとつて一つの精神的労作ともいふべき「生命の表現」でありますから、これを男の場合と同様に片づけることはできますまい。
「女はおのれを好むもののためにかたちづくる」と古人は申しましたが、結局、女の本能は自分を美しくみせるにあるといふぐらゐの意味であらうと思ひます。
それはそれで異論はありませんけれども、そもそも、「美しくみせる」といふ技術と、その技術の根柢をなす真の「女性美」なるものの標準について、現代の女性は、私に云はせると、多少迷つてゐるのではないか、自分のどういふところを活かせば一番美しくみえるか、といふはつきりした目当てがないのではないか、さう思ふのです。
そこから、「女の嗜み」に反する「身嗜み」が平然と行
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