つて、この家庭といふ、既に日本語になりきつた言葉を、ことさら忌み嫌ふ必要はありますまい。
 前置きはこれくらゐにして、家族にしろ、家庭にしろ、ともかく、親子夫婦が一つ屋根の下に集つて生活を営む以上、そこに、他の集団生活にはみられない、特殊な秩序と雰囲気とが生れる筈であります。
 祖先以来、幾代も続いて同じ家に住み、同じ習慣をつゞけ、親から子に一切のものが引き継がれるといふ昔の生活と違ひ、最近では、さういふ家庭はむしろ珍しくなつて、多くは、親の家を離れたものが、自分の働きで独立した生活を営み、そこへ家風の違つた他家から妻を娶つて、いはば若いもの同士が、それぞれの好みと経験とを持ち寄つて、いはゆる新家庭を作るといふのが普通であります。或る時機が来ると、郷里から老人を呼び寄せるといふ場合も少くありますまい。しかし、もうそれは、曲りなりにも、一家の流儀といふものが出来上り、または出来かけたところでありますから、老人は、それを見て見ぬふりをしてゐる。よほど目に余つたときは、遠慮がちに口は出すけれども、それはたいがい嫁の気に入らない。老人は唇を噛み、孫を抱いて無念無想に耽るといふ図がそこここに見られます。
 頼みに思ふ息子を嫁に独占されたかたちの老人は、せめて孫でも思ひきり可愛がらうとする。孫は老人の愛撫に馴れて、人を人とも思はなくなる。両親の小言も馬耳東風で、しまひに大泣きに泣いて大人を強迫する。
 母親は主人の方針に従つて子供をあまりひどく叱らない。叱つてはいけないと物の本にもよく書いてあるからでもある。云ふことを聴かぬ子を叱らないから、ますます横暴を極め、父親の背中さへ足で蹴飛ばす。「およしなさい、坊やちやん」などと母親は猫撫声で制する真似だけする。
 父親は、いくぶん照れて、照れかくしに、わざと突慳貪な云ひ方で、母親の、台所へ瓦斯を止めに行くその背中へ浴せかける――「こら、新聞を早く持つてこい。何を愚図々々してるんだ」
 まさか、こんな家庭はさうざらにはないと思ひます。しかし、この光景の一部は、今、殆どすべての家庭生活の隅にころがつてゐるのではありますまいか。
 およそ、日本の家庭として、これくらゐ、ぶざまな、はしたない、つまり、「嗜み」の欠けた話はないのであります。
 たいがいの人はそれに気がついてゐて、さてどうにもならないといふのが、佯りのない現状であらうと思ひます
前へ 次へ
全34ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング