を期待するのは、私に云はせれば芸術の邪道である。
菊池氏の「父帰る」は、決して、常識的成効以外に何物もないと云ふのではない。先づ第一に、あざやかな現実整理が行はれてゐる。心理の推移に説明以外の暗示的飛躍がある。これは劇的作品として、すばらしい長所だ。これだけでも、現代日本の作品としては傑作の名が許されるであらう。
私は、此の興味ある作品について、今細かい欠点などを指摘したくない。
菊池氏の劇は、私の考へてゐる劇、殊に私の好む劇から可なり隔つてゐる。が、それは問題ではない。世の中に、一種類の色しかなかつたら、自然は如何に落漠たるものであらう。
演出について、先づ俳優に註文がある。脚本が佳いだけに、もつと工夫をして貰ひたい。する余地がある。頭の働かせ方が足らないと思ふ。ひどい云ひ方のやうだが、それは固くなり過ぎてゐると云ふことである。真面目とか熱心とか車輪とか、そんな文句に力瘤を入れて、見物の同情を買はねばならぬほど此の一座の俳優は無能ではない筈だ。もつと、ずつと、ゆとりがあつていゝ。ふつくらと、丸みのある演出をしてほしい。すつきりと、冴えた演出をして貰ひたい。「科」と「白」との間
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