かないものがあるとすれば、それは冷静な批評家ばかりに違ひない。
 扨て、私は、そつと涙をふいて、息苦しい胸の動悸を鎮め、徐ろに、何の為めに自分がこゝに来てゐるのかを考へた。
「父帰る」はたしかに傑作である。かう云ひ切つてしまふのが私の義務だらうか。若し私が何も云はずにゐたら、私の感動、私の流した涙が、それを語る有力な代弁者ではないだらうか。私はさうは思はない。「父帰る」は見物をあゝ泣かせてしまふところに、惜しむべき芸術的の瑕瑾がある。
 われわれは、よく、芸術的作品から、一面に芸術的ならざる感動を受けて、それを以てその作品の芸術的価値を評価しようとすることがある。実際に於て、さう云ふ種類の感動が、判然、作品中に他の部分から離れて存在すると云ふやうな場合は稀であるが、作家の企図した「効果」なるものが、往々、その表現の性質上、芸術的形式を越えて、或は、それに達せずして、単なる必然的事件、或は運命的現象として、作者の手から滑り落ちるとき、それが必然的であるだけ、感動に「真らしさ」があり、運命的であるだけ効果が直接である。それは、云はゞ単なる常識的感動である。常識的感動によつて芸術品の「効果」
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