の理論は第二として、その仕事から直接、ある意味を嗅ぎ出して、私流に解釈した独断に類するものであつた。この「本質主義」なるものの説明はここで繰り返す煩を避けるが、要するに「純粋演劇」への明らかな趨向を示したつもりであつて、その論旨の中枢は、かの「ドラマチック」なる語の再検討であり、従来の「ドラマツルギイ」への率直な質疑でもあつた。なほ、近代演劇運動の諸相と題する一文中、「近代主義と本質主義」なる項に於て、表面相反する如く見える二つの傾向、即ち、過去の否定と、古典尊重の精神とが、等しく現代の演劇革新運動の中に相対峙し、又は、相交錯する状態についても述べたのであるが、これらの諸相を通じて、私は常に、「純粋演劇」への探求が、その窮極に於て問題とされるであらうと信じてゐたのである。
 そこで、近代劇運動の理論的帰結が、「演劇の再演劇化」にありとして、あるものは、近代主義的舞台の建設に、あるものは、本質主義的演技の訓練に、それぞれ目覚ましい活動を続けつつあつた戦後欧羅巴の劇壇は、われわれに何を齎したかといへば、単に、その中途に於て明滅した個々の流派的宣言と、その運動自体の末梢的輪郭だけであつた。

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