リックからの独立である。その間、反動として、素人劇[#「素人劇」に傍点]が生れ、詩人劇[#「詩人劇」に傍点]が生れ、美術劇[#「美術劇」に傍点]が生れ、電気劇[#「電気劇」に傍点]、機械劇[#「機械劇」に傍点]などまでが生れようとしたが、結局、舞台はといふよりも寧ろ演出家と俳優は、必然的に、戯曲、即ち文学の指向する道を知らず識らず歩まされて、今日に至つてゐる。彼等は、しかもなほ、口を揃へて、「新しき戯曲出でよ」と云ふのである。
 私は、彼等が何を求めてゐるかを知らないが、少くとも、「新劇運動」の一員を以て任ずる彼等が、一攫千金を夢みてゐるとは信じられないし、「過去に在つた」ものの複製を探してゐるとも考へないから、只単に「変つたもの」「新しいもの」を追ひ求めるスノブの群は別として、他の芸術の部門に於ける如く、「純粋なもの」への欲求が、何等かの形に於て示されて来るであらうと待ち構へてゐるのである。
 で、私は先づ、自分の仕事を始めるに当つて、一つの意見らしいものを公表した。これは、巴里に於けるヴィユウ・コロンビエ座の運動から暗示を得た「演劇の本質主義」とも名づくべきもので、ジャック・コポオ
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