ゆる社会層への食ひ込みを目ざす一方、かの「純粋」の名を冠せられる真摯な運動が、今日では、立派に、存在理由をもつてゐるに拘はらず、独り演劇の部門――戯曲をも含めて――に於てのみこの運動が中途半端のまま葬り去られようとしてゐる現象は、どうしたものであらう。
実際、私の知る範囲では、「演劇の純化」を標榜するフランス自由劇場以後の諸運動乃至その指導者も、未だ嘗て、「純粋演劇」といふ問題には触れてゐないやうである。僅かに、ゴオヅン・クレイグが、その理想家的感傷をもつて、「演劇の独立」を叫んではゐるが、その実、「演劇をして演劇のみの演劇たらしめる」主張は、単に、舞台より「文学」を排除するといふ空漠たる目的のために、却つて、演劇の生命を稀薄にし、而も実際は、常に、優れた文学的作品のみに頼るといふ自家撞着に陥つたことからみても、この理論は最早、空論に終らうとしてゐるのである。
過去半世紀に至つて、「演劇の独立」は、各方面から、いろいろの分野に於て叫ばれたことは事実である。先づ第一に、商業主義よりの独立である。第二に、職業的因襲よりの独立である。第三に、官学的伝統よりの独立である。第四に、文学的レト
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