場鎮などの、殆ど廃墟と化したあたりを、たつた今眼の下にみて、想ひを当時の凄惨なニュース面に馳せたが、この快晴の大陸の空を仰ぎ、沿道に蔬菜を作る同胞青年の甲斐々々しい姿を眺め、私の胸はふとある希望に和んだ。
 報道部で打合せをすませ、兵站宿舎である北四川路の東亜ホテルに落ちつく。前線と内地を往復する軍人軍属の足溜りに応はしい、簡にして要を得た宿舎である。支那人のボーイもゐれば、日本娘のサーヴィスも受けられ、帳場のお神さんはひつきりなしに電話にかゝり、食堂のテーブルには、三度々々クレオソートの瓶が出してある。
 ところが、厄介なことに、私は東京を出る時分から腰のあたりに小さな腫物ができて、どうもこのまゝうつちやつておけさうもないので、宿へ外科専門の瀬尾博士が寄つて下さつたのを幸ひ、その自動車で一緒に南市の同仁会病院へ連れて行つてもらつた。これは云ふまでもなく、軍と外務省の協力のもとに、支那難民の診療救済を目的に作られてゐる臨時の施設である。
 私は、有難く、友邦の難民諸君に混つて、博士の懇切な手当を受けた。これは余談だが、病院の廊下、各科の診療室には、老若男女の患者があふれてゐた。延原の説
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