ちよつとわからない瞬間がある。乳呑児を抱へた母親は、背中を丸めて人かげにかくれる。年寄り夫婦は互に手を引きあつてはぐれまいとする。まつたくさういふ懼れがないではない。彼等のうちの幾組かは数ヶ月のあひだ離ればなれになつてゐて、今日やつと廻り合つたのかも知れないのである。
騒然たる一つ時が過ぎて、×××の訓示がはじまつた。通訳は日本人であつたが、×××の力強い言葉の調子を伝へる工夫をしてゐた。訓示の内容は大体かうであつた。
「お前たちは戦争のおかげで苦しい目に遭ひ、まことに気の毒であるが、かういふ戦争を惹き起したのは日本ではなくて、お前たちの国の軍隊だ。蒋介石が共産党と手を組んで日本軍に刃向ふといふことは、お前たちにとつてこの上もない不幸なことだ。日本軍は、すぐにでもお前たちを事変前の状態に戻してやりたいが、今はさういふわけにいかん。しばらく辛抱せよ。われわれは、先づ戦争の目的を達したうへで、お前たちのためにできるだけのことをしてやる。日本軍は、良民に対しては決して危害を加へるものではない。その代り、当分の間、一定の地域以外に勝手に出てはならん。お前たちが一日も早く安居楽業のできるやうに
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