なかつたといふことだ。最初、支那兵の一隊が此処へ侵入して、無断で陣地を構築しはじめた。自分は、厳重に抗議した。隊長は聴き入れない。命令だからやるといつて動かない。自分は、その命令が何処から出たかを知る必要はない。早速漢口の領事館へ電報を打つた。支那当局に向つてかゝる行為の禁止を要求してもらふためである。領事から返事が来た。その返事はこれだ。支那当局は直ちに要求を容れた。必要な手配がとられる筈だが、極力実行を監視せよといふのだ。自分は殆ど腕力に訴へて、支那人を追ひ払つたのだ。しかも、彼等に、破壊した部分を修復せよと迫つたが、彼等は、この通り申訳のやうなことをして立ち去つて行つた」
「この外観は、依然として陣地である。日本軍の砲撃は受けなかつたか?」
 彼は、そこで、空を仰いだ。そして、黙々として私をある一室に導き入れた。彼の居室である。
「恐しい瞬間だつた。自分は砲声の轟いてゐる間、なにをしてゐたと思ふか。しかたがないから、こゝでパスカルを読んでゐた」
 肩をぴくんとあげるといつしよに、芝居気たつぷりなこのカトリックの坊さんは、ソファの中で片眼をつぶつて笑つた。
 天主堂の内部もまた、本
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