は、現在の日本人が自ら恃むところのものを、世界の識者がひとしくこれを讃仰するためには、公平にみて、われわれ自身余程の思想的鍛錬が必要ではあるまいかと感じるからである。
 例へば、と来ると、やはり政治の面に触れたくなる。が、こゝではそれが目的ではないから、例を卑近な所にとれば、支那人は非常に社交的でお世辞がうまい。だから日本人はついそれに引つかゝる。相手の好意を過重評価して、屡々裏切られる事があるといふ話を大分聞く。
 この見方は甚だ双方を理解した見方だと思ふが、さて、さういふことを知つてゐたからとて、どうにもならぬのではないかといふ気がする。なぜなら、もともと、それがお世辞だといふことが判らないから起る問題なので、お世辞かお世辞でないかを区別する能力に欠けてゐる者にとつては、結局、相手の真意がわからぬことになり、間違ひはそこからでなく、どこからでも生じるわけだから、如何ともなし難い。お世辞をお世辞らしく紋切型で云ひなれ、聞きなれてゐる民族は、お世辞らしからぬ妙味など食ひ分ける舌はもたないのが普通である。この知識は正に実地の応用は不可能とみてよろしい。
 また、かういふ話もよく聞く。支那
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