、如何なる時代に生き、何ごとをなし得たかを知ればいゝのである。
 僕は、仏蘭西で食へなくなつたら、日本へ帰るつもりでゐた。食へなくなる怖れがだんだん増して来た。日本へ帰つたら、ひとつ、帝劇舞台監督の助手にでも傭つてもらはうと考へてゐた。そして、その傍、独特な仏蘭西演劇史の稿を起すつもりでゐた。舞台監督助手が駄目だつたら、翻訳の仕事でも探さう。尤も、僕が訳したいと思ふものは、みんなもう訳されてゐるだらうとも考へ、内心不安であつた。
          ×
 ある日、ピトエフと楽屋で話をしてゐた。なにか日本のものをやりたいが、どんなものがあるだらうといふ。僕は即答ができかねた。第一に、なんにも知らなかつた。第二に、手許にある僅かな脚本は、やらせたくないものか、やらせても駄目なものばかりのやうに考へられた。僕は、黙つて別れたが、ひとつ、づるいことをやつてやらうと思ひつき、早速、生れてはじめてと云つていゝ現代劇の創作にとりかゝつた。一週間後に、知合ひの仏蘭西人の協力を仰いでそいつの仏訳をまとめ上げた。題して、「|黄色い微笑《アン・スウリイル・ジヨオヌ》」!
 ピトエフに見せると、「こいつは面白
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