に脚本の詮衡、原作者の名前に囚はれないで、上演に適した翻訳であるかどうかを吟味することが必要である。こんなことは云ふまでもないことであるが、この誤りは逆に俳優を窮地に陥れるものである。あの間《ま》のびのした台詞廻し、朗読の範囲を一歩も出ない抑揚緩急、科と白との間に出来るどうすることもできない空虚、これらは前に述べた戯曲の文体から生ずる舞台的欠陥である。
 私は日本の近代劇が先づこの点で大きな障碍とぶつかつてゐることを痛切に感ずる。

 六月号に、ルナアルの戯曲「日々の麺麭」の翻訳をのせた。

       七

 そして、この年の六月には、日本新劇史上、劃期的の事業とされてゐる築地小劇場が創立せられ、その旗挙公演が華々しく行はれた。
 私は勿論、大なる感激と期待をもつてこれを迎へた。かねがね、いろいろな機会に、この運動の具体化されつゝある情報を耳にしてゐたことはゐたし、ほゞ、その輪廓は推測し得るものであつたが、要するに、独逸帰りの土方与志氏が巨万の私財を投じ、嘗ての「自由劇場」の創立者小山内薫氏が采配をふるふといふことだけで、十分、合理的なプランと良心的な目標とが掲げられるものとわれわ
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