。妹と二人暮しであつたから、その妹も序に坐らせた。あゝ、日本といふ国はなんといふ有難い国であらう。あれくらゐのものを書いて、遂に、僕は「知られ」ることになつた。
それまでは、さほど気にとめるつもりもなかつた世評に対して、僕は、やはり好奇心を動かした。しかし、月評を漁つて読むといふ手は知らなかつた。で、自分のとつてゐる新聞で、人が何と云つてゐるかを注意した。時事新報で、金子洋文君が好意に満ちた批評をしてくれたのが最初である。翌月の演劇新潮で、柴田勝衛氏が毛色の変つたものとして「古い玩具」をあげてゐた。柴田氏は当時読売の文芸部長、僕のところへ訪問記事を取りに来た青年記者は、現在同紙の文芸部長清水源太郎氏であつたことを思ひあはせると、誠に今昔の感に堪へない。
その外の批評は、出たかも知れぬが僕の眼にはまつたく触れずにしまつた。たゞ、「新演劇」といふ雑誌で、小寺融吉氏が、「新人の名に値しない作品」だとこきおろしてゐるのを後に読んだ。読んだ時は「何を」と思つたが、さういふ人もあつてくれてよかつたといふ気が今はするのである。誰がかう云つて褒めてゐたとか、貶してゐたとかいふ間接の話が随分聞かされ
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