事を見つけねばならぬ。幸ひ、友人の鈴木信太郎君や辰野隆氏などが、「フランス文学叢書」の計劃を発表し、僕にも何か訳さぬかと勧めてくれたので、早速、同じルナアルの短篇集「葡萄畑の葡萄作り」を、これは、散文だから一日三十枚平均、全部を十日あまりでかツ飛ばした。ルナアルの文体は散文と会話との間に微妙なつながりがあつて、戯曲を訳す参考になつたことは非常なものであつた。
 話は少し前後するが、帰朝後間もなく、僕は歌舞伎劇を一度観てやらうと思ひ立ち、鈴木信太郎君を誘つて、たしか市村座であつたらう、菊五郎一座を見物した。菊五郎といふ役者をこの時はじめて観たのである。勿論、完全に酔つた。巴里で最初に、ロスタンの「雛鷲」を見た時、やゝこれに近い感動を味はつたが、精しく云ふと、向うでは胸がどきどきしたくらゐであつたが、こつちでは、悲しくもないのに涙が眼がしらに満つて来るほどの違ひがあつた。
 僕は、この日の経験をあとでいろいろ考へた揚句、やつぱりかういふものだらうと思つた。歌舞伎といふものは、すばらしいものだ。菊五郎といふ役者は立派な役者に違ひない。僕は素直に、その魅力を享け容れ、純粋に芸術的感動を味つたと
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