が何人も予想しなかつたセンセイシヨンを捲き起す例が屡々あるのはどういふわけだらうか? ミユツセ、ポルトリツシユは何れもさうである。原因は恐らく単純ではないであらう。しかも、優れた作品が長く埋れてゐたといふ事実に変りはない。ある時代が享け容れるものには限度があるといふことになるのであらうか? それなら、ある時代が享け容れないものとは、なんであらう。思想や形式の場合もあるだらう。しかし、それよりも、多くの例は、劇壇の因襲が、批評家や見物の保守的偏見が、伝統の新しい、飛躍的な発展に対して目をふさいでゐた証拠を示してゐる。が、また、ある場合は、上演の諸条件が、まつたくその作品の魅力を封じてしまつたことも想像できるのである。就中、配役の不適当は、ある作品にとつては致命的でさへある。
僕は、努めて、上演後刊行された戯曲を読み直すやうにしてゐた。舞台で相当面白く、評判もなかなかよかつた作品が、活字で読むと一向つまらぬやうなものもあつた。
そのうちに、僕は専門の劇作家が書いた戯曲と、小説家や詩人がたまたま書いたといふ戯曲とを比較してみる興味を感じだした。それから、今度は、小説家や詩人が戯曲を書いて
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