ひながら、朝の化粧をすませ、新聞の一面へざつと眼を配る動作を私は黙つて見戍《みまも》つてゐた。
 ソロモン海戦の華々しいニュースは、彼女の死の床の上に伝はつたのであつた。
 五十日祭の当日、私は、ひとり書斎で親戚の集るのを待つ間、開け放された窓からぼんやり秋日和の庭を眺めてゐた。柄にもなく、こんな歌のやうなものがひとりでに出来た。

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えびすらの
稜威高しと仰ぐ日を
待たで去りにし
わが妻あはれ

妻逝きて早や五十日
木犀の
かをれる庭も荒野のごとし
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 もうなにも書くことがないやうな気もするが、日記をめくつてゐると、また言ひたいことが出て来るかも知れない。

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大正十年九月十六日
今日は十五夜だ。
御飯がすんだ頃月が登りきつた。黄色い光を含んだ灰銀色の雲が空の方にちらばつてゐた。月は円くて――当り前だが――よく光つた。が、磨いたやうとは云へなかつた。時々雲がその上を渡つた。私は何かしら祈りたい気持になつた。私は黙つて手を合せた。母が手も洗はないでをがむなんて、と笑つた。私は見られたと思つて一寸変な気がしたが、やはり祈りたい気持は私の全身を奇異なもので充した。私は手を洗つた。口をすゝいだ。そして裏口で手を合せた。
月を見つめた。
何を祈りたいのか、私は知らなかつた。
私は考へながら
「どうぞいつまでも永久にわかくゐられますやうに。どうぞ強く生きられますやうに。どうぞ私のなかにある芸術のつぼみが大きく生々とひらきますやうに。」
と、口の中でくり返した。
けれども、祈りたいものは、最も祈りたいものは、こんなことではないことを私は知つてゐた。
けれどもそれが何であつたかは、私はたうとうつかまへられなかつた。
さびしい気がした。
十二時過ぎ。
何といふさびしさだ。今から、十九年十一ヶ月といふ子供の時代から、そんなにさびしがつていゝものか。いゝもわるいもない。さびしいんだからしかたがない。

昭和十七年七月二十七日
つよきものわけて心をひく日なり満庭を灼く日に見とれをり
夜、月光。

七月二十八日
木々の葉はあやしく黄なる花となりぬ曙の日の雲をやぶれば

翼賛会をやめてほつとした彼の顔。
ご苦労さま。そして、私がこんな風で、なんにもできなかつたこと、ごめんなさい。のうのうと休ませてあげたい。痛いところがあればさすつてもあげたい。しかし、家にゐて、あれこれと気をつかふのは彼。お国のためといふ言葉が、こんなに身近な言葉だとはつい知らなかつた。なにかしら、得意と安心。だが、私も疲れた。

七月二十九日
親類に行きし娘らみそぱんをもらひ帰りぬ昔なつかし
娘らよわれおんみより小さかりきかの教場にみそぱん食《は》みし
暑い。ガラス鉢の熱帯魚が羨しい。夕食後、冷い林檎を噛みながら、ふとはげしい懐疑に襲はれはじめた。かういふ世に、自分のやうな女が一番無用なのではないかと、世間に対しさうであり、夫や子供の世話にかけても不器用で、また若いときの苦労、仕込の足りない女。
私の愛は夫を幸福にするやうなものであつたかどうか。

七月三十日
お灸とは少しおどけしものならむ病気をまじめに思はずなりぬ

七月三十一日
お向ひの野口さん重態の由。衿子たちはおその小母さんに頼まれ竜ちやんのお守りをしてあげる。
子供の水泳着のことを心配したり、病人のお菜のことで女中にあれこれと云ひつけたりしてゐるとき、ふと「仕事」が彼の頭にかへつて来る。俄然、彼は夢から覚めたやうになり、落着きを失ふ。
家族の世話をやく時、彼の注意は綿密をきはめ、そのため何かいたましい感じすら感じさせる。彼が一日でも二日でも家をはなれ、都会を離れ、ぼんやりしたり、勝手放題なことを考へたりできればと、私はどんなにかのぞむのだが、さて彼が留守になると、やつぱり不安なのである。
不意に「瞬間」がやつて来ることはないか。その「瞬間」の感じをせめて眼でなりと彼に語りたいのだ。

八月一日
真理子さんが上海の浴衣地を仕立てて持つて来て下すつた。ヨットや浮袋がついてゐる。海に行つた気分だけでも味はつてくれとのこと。また泣きさうになる。
暁暗の紀淡海峡にほのぼのと浮べる真帆も思ひいでつゝ
モーターボート浪をま白く切りて行くかの爽快も幾年知らず
ゴーギャンの描きしタヒチ思ふかな浴衣の船を眺めてあれば
白き帆の風にはためく音すなりいざ行け小舟わが夢のせて

八月十一日
白雲の空をおほひて湧き湧くを一と日ながめてつひに飽かざり
火てふものの生にかゝはる因縁を思ひみるかな灸をすゑつゝ

八月十五日
菅原さん来訪。お花を下すつた。紅をさしたやうな百合、薄紫の刷毛のやうな花、菊、りんだう。
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 日記はこゝで終つてゐる。
 八月十七日、あの雷
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