雨の夜、容体が急変して、一週間の後、遂に呼吸《いき》をひきとつた。
 かうして、二十年の間を隔てた日記の断片を二つ拾つてみると、私には、彼女の生涯といふものが、なにか満たされないまゝに終つたやうな気がしてならぬ。
「満たされる」とはどういふことか。それは結局生き方の問題である。彼女が私との結婚生活に「あるもの」を求めてゐたことはわかるが、それが、私に云はせると、すべて結婚生活に求むべきものであつたかどうか、大いに疑問があるのである。
 家庭生活が女の生活の全部だとする説に私は必ずしも同意するものではない。女はまづ母でなければならぬといふ意味に於てさへも、私は、母といふものを一家族が独占すべきものではないと信じてゐる。
 家は生命の根幹であり、生活の基盤であつて、そこから人間のあらゆる営みが発動するのである。「家」は「家」としての一つの目的をもつけれども、目的そのものではない。家は家としての理想を、夢をもつ。しかし、家は理想でも夢でもないのである。
「家」の現実は、女を往々にして、がんじがらめにする。現実は、これと闘ふべきではなく、これを処理すべきものである。勇気よりも忍耐が必要である。知識よりも技術、技術よりも単なるコツが物を云ふ。
 一切の浪漫主義は「家」の外にある。家は浪漫主義者をも排斥しはしない。しかし翼をひろげさせない。少しの空想も、そこでは息苦しい。愛といふものに若し貪婪な性質があるなら、そこでは、妻は夫から、夫は妻から愛されてゐるとさへ思へないのである。

 家内の死によつて、私は、彼女の存在が明らかに私を左右してゐたことを知つた。言ひ換へれば、彼女がなんのために私のそばにゐたかといふことがよくわかつた。
 私はいちいち家内と相談をして内外の事を運ぶといふ方ではなかつた。それにも拘はらず、彼女ゆゑに、為し、彼女ゆゑに為さなかつたことのいかに多いかに、今、驚いてゐる。いつの頃からか、ずゐぶん若い頃から、私は自分の幸福といふやうなことを考へる習慣をなくしてゐる。しかし、家内の幸福といふことだけは、結婚以来、念頭を去つたことはない。なんらの見栄もなく云ふが、ある時期には、家内の幸福のために、彼女さへそれを望めば、いつそ実家へ返さうかと思つたことさへある。
 家内は日記にその当時のことを書きつけてゐるが、それを本気にしてゐない様子である。彼女には、さういふ私がいかにも冷やかに思はれたらう。今ならば、私もさう思ふ。
 私たちの夫婦生活には、いはゆる危機といふやうなものは一度もなかつたやうに記憶する。二人は十分それを警戒し、それらしいものを意識することさへ恥ぢる気持が明らかにあつた。
 しかし、それが結局、いゝことであつたかどうか、今の私にはわからない。雨降つて地固るといふやうな、さういふ経験を一度も味はない夫婦に、なにか欠けてゐるものがあるとしたら、私たちは正しくその部類に属するであらう。
 家庭の平和といふ言葉が、それほど安易に使へるなら、私たちの生活は平和であつたと云つていゝ。それと同時に、問題にならぬやうな口喧嘩もしなかつたわけではない。それに、私たちは、いづれ劣らず喧嘩ぎらひの方であつたから、つい、喧嘩には身が入らなかつた。をかしいことに、早く冷静をとりもどす競争をするつもりだなと、雲行きの怪しかつた後の彼女をみると、私には思はれるときが多かつた。

 日記を読んでから、家内のその時々の心の動きをはじめて知り得たといふやうなところもあるにはあるが、それよりもやはり結婚前の、それも恐らく誰にものぞかせなかつたらうと思はれる心の秘密の一切を、私が否応なしに聞かされたといふことは、これこそ私にとつて例へやうのない事件である。
 そこには、夫たる私が知つてはならぬことが記されてゐたであらうか。私は敢へて云ふ。知つてはならぬことは何ひとつ記されてはゐない。しかし知らなくてもよいことが、そここゝにいつぱい書きちらしてあつた。
 私は、はじめ、なにか取り返しのつかぬことをした、といふ気がした。私は読むべからざるものを読んだといふ、悔恨に似た苦味を胸ふかく味つた。だが、すこし落ちついて考へてみると、彼女は、特にそれを意識してではないにしろ、私の手に平然として自分一人の過去の歴史を残して行つたのである。それは、彼女が、私との結婚に際しても、なほかつ葬り去るに忍びない歴史として、筐底に納めたまゝ私の許に運んで来たといふことである。
 かくて彼女は、彼女のすべてを私に示し、私に与へた。今、私は彼女の苦しみを、悲しみをわがものとすることができた。彼女の、終生追ひ求め、しかもそれがはかない幻影にすぎなかつたものを、私はやうやくにしてそれと察することができた。日記を通じて、口癖の「淋しさ」は、そこにあり、その淋しさのゆゑに、彼女は身をも心をも瘠
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング