愛結婚の提唱とかが話題として巷を流れたのは別として、女子の高等教育が世論の賛否に拘はらず着々普及しはじめ、東京帝国大学も遂に女子聴講生の制度を設けるに至つた。
 女性と雖も、その上、左翼思想の流行に無関心ではゐられず、アメリカニズムの宣伝に耳を傾けないわけにいかぬといふ始末である。
 かういふ雰囲気のなかで成長した一日本女性の精神の歴史を、私は明らかに家内の結婚前の日記にみる。
 この時代の波に乗りきれぬ何かが、彼女の稟質のなかにあり、しかも、彼女は、おぼろげな夢を抱いて前へ進まうとしたのである。そこには、理性と感情との分裂がなくはない。けれども、それ以上に、現実と空想との織り交つたある種の少女に特有な心的生活の風景があるやうに思ふ。
 彼女は二十四まで学生生活をしつゞけたのであるが、むろん時代の影響のほかに、それは本郷西片町に住んでゐたといふ関係もあり、近しい友人の示唆もあるにはあつたであらう。しかし、なによりも、私は、彼女が両親と共に山陰の田舎町から東京に出て来て、見知らぬ周囲のなかで、さゝやかな移住者の生活をしてゐたといふところに大きな原因があると思ふ。彼女は、おそらく、自ら恃《たの》むところのものを、自分の身にしつかりつけたかつたのである。学問そのものを好むといふよりも、学問に親しむといふことこそ、彼女の憧れであつたと云つてもいゝ。
 いはゆる知識婦人の矯激と軽薄から彼女を救つたのは、質実剛直な両親の気風だつたと私は確信する。
 たびたび私は彼女の自尊心の現れかたについて観察した。多少意地のわるい見方かも知れぬが、彼女は決して故らに謙遜したり、うかつに自己吹聴をしたりせぬだけの自負心をもつてゐた。社会的地位の上下などで相手を遇するやうなことは絶対にせず、女中には必ず「さん」づけをするといふやうなやり方にもそれが現れてゐた。夫の私などに対しても、世間の多くの細君よりも丁寧な言葉遣ひをしたが、これも、それによつて、女としての品位を保たうとする心掛けのやうにみえた。
 ところで、彼女の自尊心を甚だ傷けるやうなことが、家庭の雑用のなかには多い。それをやることがさうなのではなく、それがうまくやれないことがさうなのである。手先が器用でないといふ云ひ逃れをしばしば聞いたけれども、それよりも、娘時代になんでもなくさういふ仕事の訓練を受けてしまはなかつたからである。
 この種のことはうまくやれなくつたつてそんなに不名誉にならぬといふやうな考へは、或は結婚当初にはあつたかもしれぬが、だんだんさうでないことがわかつて来たとみえて、よほどいまいましさうであり、別に色にはみせないが、一生懸命の様子でそれが察せられた。それをまた、私が、時によるとそばから、そんな簡単な、女ならちよこちよこつと眼をつぶつてゐても出来るやうなことを、さう大童《おほわらは》になつてなどと口を出す。冷やかすだけならいゝが、多少は小言めく。いや味になることすらある。辛《つ》らかつたらうと思ふ。が、このことばかりは、彼女が、日記のなかで、しみじみ後悔の言葉として書き綴つてゐる。

 今、私のそばにその彼女がゐなくなつたといふことは、彼女が実は、私のために、娘たちのために、すべてをしてゐたといふことをはつきり私に教へるのである。
 彼女がどつと寝ついてから、私たち一家のものは、それこそ多少の不自由を忍ばなければならなかつたが、しかし、彼女がまだそこにゐるといふだけで、つまり、何ひとつ相談をしたり指図を受けたりしなくても、彼女の姿をそこに見、彼女の心をそこに感じるだけで、十分に「家」はその機能を働かし続けてゐたのである。ところが、彼女の死は、彼女の生命の終りであるのみならず、この「家」の永久の沈黙とでも云ひたいやうな、底知れぬ打撃を見舞つた。私は幼い二人の娘を前にして、彼女らの母の面影をはかなく手ぐりよせ、言葉しづかに云ひきかせる――
「お前たちは、お母さんが、かうなつてほしいと思つてゐたやうな娘にならなければいけないよ。それがお前たちのお母さんへのつとめだ」
 私は、少しの不安もなく、かう云ふことができた。

 去年の暮、彼女はもうすでに、少からぬ疲れをみせ、風邪をこじらせたと云つて、咳をしつゞけてゐたが、かの十二月八日のラジオの前で、そこへ起きて行つた私を見すゑながら、やゝ興奮した調子で、「たうとうはじまりましたわ。ラジオ、お聴きになつたら」と云つた。
 二月にはもう床から起きあがれなくなつてゐた。マレイ沖でプリンス・オヴ・ウェールスが沈められたあの報道を聞いて彼女は涙を流した。
 熱がいくら高くても、新聞にだけは自分で眼を通さなければ承知しなかつたといふことを、後から看護婦が白状した。私がそれを止めてゐたからである。呼吸《いき》を引きとるその日も、しびれの来た手を重たげに扱
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