於て、正に世界文学の如何なる傑作にも比肩すべきものをもつてゐる。
 嘗て、否、今もなほ、美術家は巴里に、音楽家は維納に遊び、その技を練ることができる。大多数の作家は、外国語の散文を読みこなす力をもつてゐる。ところでわれわれは、欧米の演劇を、如何に紹介し、模倣し、咀嚼したか?
 民衆が演劇を生むといふのは、あらゆる文化の水準が一定の高さに於て平均され、風俗の規準が社会的に統制されてゐることを条件とするのである。現代日本の公衆は、自己の生活の中に、「演劇美」を構成する要素があるかないかをまだ知らずにゐる状態である。真の意味での「近代的舞台表現」なるものは、屡々その道の専門家によつて試みられ、そして失敗した。戯曲は散文でありすぎ、俳優は人形でありすぎ、劇場は研究室でありすぎたのである。一言にして云へば、われわれは、精神的娯楽としての現代劇――形式内容ともに現代知識人の要求を充たす演劇――といふものをもつてゐない。

       二

 東京及び大阪の商業劇場に於て、「歌舞伎」の外に、「新派」と称する劇団が、現代生活の舞台化を試みてはゐるが、その俳優の教養は、寧ろ歌舞伎俳優のそれに近く、殊に
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