、描写の如何、その他直接感情に愬へる言葉の意味さへ、殆ど能楽全体としての効果から云へば計算に入れなくてもいいのだ。結局、謡曲なるものの、所謂「物語としての」文学的発展、殊に、所謂「劇的」な内容は、能楽の高い鑑賞には却つて邪魔つけなのだ。それは飽くまでも、演技化された「言葉の魔術」だ。「言葉」の音と意味とが、何れともつかず渾然と同化して、瞬間瞬間の「幻象《イメエジ》」を繰りひろげ、その幻象が、刻々生命の象徴として視覚的に浮び出るのだ。連鎖なき言葉の幻象にこそ、超現実的生命が流れるので、そこにこそ、自然ならざる「真」を感じる悦びがあるのだ。
 私の能楽礼讃は、しかし、多少、眉唾ものだ。なぜなら、能楽そのものを、私ほど観てゐないものは少なからうし、また、観てもそんなに面白いとは思はぬにきまつてゐるからだ。が、ただ私は能楽ファンの一群を友人に持ち、彼等の熱狂ぶり、と云つて悪ければ、その渇仰ぶりを見て、内心甚だ穏かならぬものがあり、且つ、理論的に考へて、誠に、さもありなんと思はれる節もあり、殊に、私の演劇本質論が、偶然、この影の薄いと思はれた骨董的芸術によつて、またとなき根拠を与へられたことは、なんといふ皮肉であらう。
 私は恐らく、この秋頃から、それらの友人達にくつついて能楽を「拝見」することであらうが、果して、よく、一曲の終るまで居眠りの辛抱ができるかどうか、正に保証はできかねる。といふのは、かくも「偉大なる」演劇的モニュメントなるにも拘はらず、私の性分に通じなさうに思はれるのは、この舞台たるや、飽くまでも、「現代」と没交渉であることだ。私は、決して、「現代」を好んではをらぬ。それどころか、「現代」に生を得たことを甚だ悲しむものであるが、どうも、「現代」といふものが一番気になるのだ。何か「現代」から眼をそらすことが怖しい。いや、眼をそらすことが淋しいのだ。私は「現代を救はう」などと考へてをらぬ。なに、結局「現代人」なるものが、愛するに値しなくとも、一番、見てゐて面白いからだ。
 余談はさておき、近代の戯曲作家で、能楽にヒントを得て、その作品を物したと称せられる男が二人ある。一人は仏蘭西人、一人はアイルランド人だ。二人とも、能楽の精神を解してゐたかどうかは怪しいものだが、私の考へるところでは、東洋芸術に、異国的新鮮さを味ひ、怪奇な幻想を貪り得る人種ならいざ知らず、苟も、生れ
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング