落ちるから親爺の褌を見馴れてゐるわれらが、能楽の単純主義にさう驚くわけもなし、それをまた、真似てみる興味もなからう。まして、われわれは、チエホフを識つてゐるのだ。意識的に、チエホフから出発し、意識的に能楽の精神に近づくことは、やがて、演劇の本質主義を徹底させることになるばかりでなく、劇文学当面の問題は、理論上、一つの進路を与へられたことになるのである。
かういふ主張は、しかし、まだ、私の周囲で行はれてゐるわけではない。さうであれば、勿論、私など出る幕ではないのだが、静かに観察してみると、これから世に出ようとする若いヂェネレエションのうちにも、やはり、「純文学派」と、「大衆文学派」とが、同じ戯曲作家のうちに入り混つてゐるやうである。「大衆文学派」は、実際家であり、今日党であり、化学でいへば、応用組(?)である。「純文学派」は、理想家であり、明日党であり、学者でいへば、一生を実験で暮す研究室組である。どちらも、境界のところははつきりしないが、極端になると軽蔑し合ふ傾向があり、もつと極端まで行くと、互に同業者であることを気づかなくなる。
中にはまた「大衆性」といふ言葉を有難く解釈して、ヴィクトオル・ユゴオやトルストイは大衆的小説を書き、同時に、それが芸術的な高さをもつてゐたと論じる人々もゐる如く、演劇の通俗性を承認して、これを現代思想的背光によつて飽くまでも「芸術」たらしめようとする両天秤案も現はれてゐるやうだ。各人各説、十人十色の拠り処があつて然るべきだが、事、専門に関する限り、一応は「純粋に」その仕事の本質を突き止めておく必要がある。言ひ換へれば「手段」としてでなく「目的」としての活動に何等かの意義を与へなくてはならぬ。
卑近な例をとれば、水銀から金を採るといふ実験の成功(?)は、誠に華々しく聞えるやうだが、これは、純粋な学問的立場からは、スペクトルの数字的発見と何等異るところはなく、ただ前者は「通俗的、大衆的」に何等かを刺激煽動する効果をもつてゐるといふだけだ。それも「水銀が金になる」といふやうに「誤解」させれば一層センセイショナルな社会的成功であつて、「如何なる水銀も、多少の金をもともと含んでゐる」といふ専門的基礎知識に照せば、単に、「水銀から金を分離する」ことに成功した「予想し得る事実」なのだ。それゆゑに、「水銀から金を採る」実験が、卑むべき仕事であるとい
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