劇壇左右展望
岸田國士

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《》:ルビ
(例)幻像《イメエジ》

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     ○左、劇文学の領域

 近頃、純文学と大衆文学の問題が各所で論議されてゐるやうだが、これは、所謂「文芸上の問題」とはなり得ない一個の文壇四方山話にすぎないので、「純文学では飯が食へん」とか、「大衆文学を書くのにもやはり才能がいる」とか、何れも、動かすべからざる真理に違ひないが、今まで、どの時代の文学者も、そんなことは嘗て言はなかつたほど、当り前のことなのだ。まして、「純文学の勢力が衰へ、大衆文学が盛んになつたのは何故だ」とか、「純文学と大衆文学の区別如何」といふやうな奇問は、日本の雑駁な文壇用語を以てするに非ざれば、殆んど意味をなさない。
 しかし、かういふ問題も、直接、作家の生活に関係があればこそ、そこここで話題にも上るわけであらうが、それならば、同じ文学の領域にあつて、今日、小説と戯曲とが、一時代前に比較して、その対立関係を次第に変じて来た事実も、戯曲家の立場から見れば、一個の興味ある問題であり、同時に、文壇ジャアナリズムの注意に値する現象だ。
 歴史を遠く遡る必要はない。十年前には、小説家が戯曲を書けば、その戯曲はその小説と同等に評価されるのが普通であつた。処が、今日の小説家は、特殊な場合を除き、恐らく戯曲を書いて、その小説ほどの評価を得ることは困難だらう。その理由は、云ふまでもなく、今日の小説が、「本質的に」著しく「進化」してゐるのだ。そして、戯曲は、全く、進化の道を塞がれて、「本質的に」旧態依然たる有様だ。
 ところで、これは別に悲観すべきことではなく、もともと、戯曲といふものは、その進化の道程が、小説とは自ら異つてゐるので、小説の修業は、必ずしも戯曲の修業と一致せず、小説の達し得る領域に戯曲が達し得ないといふことは、戯曲の達し得る領域に小説が達し得ないことを証明するだけだ。但し、さういふ見解は、十年以前には、まだ漠然としてゐたに相違なく、今日でも、なほ、文壇の一部では、無批判に、戯曲が小説のレベルに達しないと断言する人々がある。さういふ人々は、果して、わが戯曲壇の、最近十年間の歩みを観てゐるだらうか。私は、前に、戯曲は、全く進化の道を塞がれてゐたと
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