いひ、「本質的に」旧態依然たる有様だといつたが、それは、文壇の表面に浮び出た若干の例のみについて述べたのであつて、爾来、黙々として動きつつある次のヂェネレエションこそは、実に、この十年間の歩みを独占してゐたのだ。
何によつてそれを感じるかといへば、聊か主観に偏するきらひはあるが、私は敢て、周囲にそれを感じさせる二三の若い友人がゐると答へたい。彼等は、勿論既成劇壇に何等の期待をおいてゐない。彼等はまた、所謂「文壇に出る」ことを最初の目的ともしてゐない。彼等は、日本の新劇が今日まで達し得たところを以て、自分の出発点とする考へすらもつてゐない。彼等は文字通り、戯曲と倶に、ただそれのみと生きて来、また生きようとしてゐる。
私は、故らかくの如き悲壮めいた言ひ方をするのではない。今日の時代に、彼等が、如何に傑作を書かうとも、これを世に問ふ機関がどこにあるかといふことを考へるのだ。同人雑誌、殊に演劇に関する片々たる小雑誌の如きは、世間的に見れば、せいぜい原稿のコピイ同然だ。彼等は、時勢を識るにせよ知らぬにせよ、その作品が、活字によつて、多くの知己を得るなどとは考へてゐまい。それ故に彼等は、徒らにあせらないのだ。そして、かく云ふ私などが、これまで無数に発表したやうな雑誌的戯曲は、夢にも書かうとはせず、また、書く必要もないのだ。
かくの如き状態は、私に、かういふ結論を引き出させる。曰く、所謂、雑誌なるものの創作欄からは、将来「本当の戯曲」は現はれないだらう、と。
それと同時に、小説と戯曲とは、何れもその本質的両端に於ては、従来の兄弟づきあひ乃至夫婦関係の如き情実主義を清算して、全く赤の他人となり、偶々路傍に相見えても、お互に挨拶の面倒さへなくなるだらう、と。
だが、これは、袋小路の如き日本の文壇に於ては、定めし、不自然極まることであらうと思はれる。何となれば、小説七軒、戯曲一軒の割合にもならぬとすると、戯曲は、全く孤影悄然、話しかける相手もない有様が眼に見えるやうだからだ。そこで勢ひ、頭をもたげるのが、演劇の実際運動だ。さういふ機運に乗じて生れ出たものでなければ、真の底力ある新劇運動とはいへない。
ここには、雑誌月評家の小姑意識も働かず、作者自から、厳正な自己批判の前に立つて、才能の試錬に耐へなければならぬ。
さて、問題を、劇文学の領域といふ本題に引戻さう。
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