の演劇史を通じて、最も偉大且つ高貴なるモニュメントとして残るものは、チエホフの戯曲と能楽の舞台であらうとは、私の予々信じるところであるが、前者は、戯曲の生命にはじめて決定的な文学的表現を与へ、それを今日にまで生かしてゐる点、後者は、同じく、舞台の幻像《イメエジ》が、最も単純な姿を以て最も深きに達してゐる点、共に比類なき芸術と呼ばるべきものであつて、何れも、東西演劇の原始精神が、期せずして、後世、見事な花を開いたとも云へるのだが、私は、この二つの例を並べてみて、総て、純粋なものに共通な特質といふものをはつきり見出し得るやうな気がするのだ。
 この議論を押進めて行くと非常に長くなりさうだから、それは次の機会に譲ることとして、要するに、チエホフの天才、並に能楽の恵まれた「運命」について、一応読者諸君の同意を得るものとし、その何れもが、決して、「演劇を如何にすべきか」などといふ、「現代的な問題」を基礎にして生じた芸術品でなかつたことを言ひ添へておきたいと思ふ。
 然るに、今日、劇文学に志す青年誰一人が、スタニスラウスキイ、ラインハルト、メイエルホリド、小山内薫の名を知らないであらうか? また誰一人がイプセン、ゴオゴリ、ハウプトマン、マアテルランク、エドモン・ロスタン、久保田万太郎の名を知らないであらうか?
 彼等は、少くとも、現代の戯曲が、如何なる意味に於て生気を失ひ、如何なる点で行きづまつてゐるかを気づいてゐる筈だ。彼等のうちの最も野心あるものは「傑作」を書かうとする前に「如何なる方向」に進むべきかを考へない筈はないのだ。彼等は、所謂「新しさ」に飽き、「こけおどし」に迷はされず、只管「本質」の問題を考へはじめてゐる。漸く、そこに来たのだ。文壇の風潮から、なるほど、遠いではないか。
 チエホフは、幸ひにして、あの豊富な文学的内容によつて、わが文壇に多くの知己を得、その戯曲は、恐らく、戯曲としてよりも、何かしら「ユニック」な文学的作品として、全く申分のない歓待を受けたやうだが、誰か文壇の批評家で、謡曲のうち、最も「意味の通じない」曲を、ひとつ、文学的に評価してみるものはないだらうか? これは最近仕入れた知識であるが、能楽の舞台に於ては、さういふ曲こそ、最も純粋な魅力を発揮するものであるらしい。言ひ換へれば、物語の筋及び、その構成の如きは、能楽としては寧ろ第二義第三義的なもので
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