らう。ただ、罪は、これらの俳優にあるのではなく、彼等がこの種の役を演ずることは、一種の自己冒涜にすぎないのである。
 それなら、新派の俳優はどうかといふと、これは、もう、あらゆる意味に於て、演劇の世界から落伍しつつある一団であり、そのうちの少数は、「新派から脱却する」ことによつてのみ、俳優としての生命を繋ぎ得る事実を痛感してゐる人々のやうに思はれる。
 今日苟も劇作を志すもので、これらの俳優が演ずる舞台から、少しでも、新時代の劇的イメエジを「吹き込まれ」るものがあつたら、私は不思議に思ふ。
 所詮、今日までの「新劇」とは、それらの俳優を標準とし、しかも、それらの俳優により「歪められ」た「現代劇」であつて、最早、今日以後の作家は、彼等を標準として新脚本の創作を試みることは、興味の上からも、野心の上からも、到底あり得ないことなのである。
 最後に、われわれが最も期待をかけてゐた「新劇畑」の俳優は、それでも、ある期間、何物かを若い時代の作家たちに与へたやうに思はれるが、それすら、私の観るところでは、極めて初歩の演劇の概念であり、その舞台的魅力は、結局、西洋の「素人劇」以下であつて、多少芝居の
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