のである。しかも、どんな芝居でも観さへすれば、「いい脚本」が書けるわけではない。ある程度まで「いい芝居」を観たものでなければ、たとへ「いい戯曲」を読むだけは読んだところで、決して、演劇の真髄を会得することはできないのである。ここでいふ「いい芝居」とは、それほど高級な芸術的舞台を指してゐるのではない。俳優らしい俳優が、人間のひと通りの感情を、相当巧みに生かし得た舞台なら、それでいいのである。要するに、俳優の表現能力が、ある程度まで豊富に発揮されてゐる芝居なら、ただそれだけで、劇作家の新しい幻象《イメエジ》の糧となり得るのである。
現在の日本に、さういふ程度の芝居は一つもない。まして、そんなものを観たといふ「作家志望者」は一人もないことになる。
かう云ふと、直ちに反対論がもち上るかも知れない。現代の名優として、尾上某、市川某を認めないのかと。私は反問しよう。それらの名優は、世界的の至芸を諸君の前に見せるかもしれないが、果して、平凡な現代の一会社員に扮し得るか? 断じて扮し得ないのみならず、若し、強ひて、かくの如き役を演じさせたなら、その会社員は、飾窓の蝋人形的人物たることがせいぜいであ
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