然し、それは、たゞ飽くまでも「或る意味に於て」である。
仏蘭西文学は、殊に仏蘭西の戯曲は、広大な視野、幽遠な幻覚の上に築かれなかつたことは事実である。然し、これが為めに、芸術そのものゝ「偉大さ」、芸術そのものゝ価値を疑ふ無定見に陥つてはならない。芸術が哲学と結び、宗教と結び、科学と結び、政治と結び、社会運動と結び、それはその結び方次第で、芸術としての存在が許されるだけである。
芸術を哲学と結んで哲学的芸術を生んだのがゲエテであるとすれば、哲学を芸術と結び芸術的哲学を樹立したのがベルグソンであらう。芸術を宗教と結び宗教的芸術乃至芸術的宗教を作つたのがトルストイだとすれば、芸術を科学と結び、科学的芸術を試みたのがルノルマンであり、芸術的科学を編んだのがファーブルであらう。
芸術を芸術のみによつて芸術たらしめようとする類ひの作家が仏蘭西には最も多い。早く云へば分業が発達してゐる。仏蘭西は、芸術家が思想を云々する必要が無いほど学者としての思想家が多い。若輩にして思想劇などを書けば、親爺が黙つてはゐないのである。
ある種の「思想ある芸術家」は、その思想が思想として伝へられることを恐れるが
前へ
次へ
全18ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング