為めに、その思想は常に機智の仮面をつけて、読者の眼を欺くのである。読者はまたそこを買ふのである。
ルナアルに於てその一人を見出す。
ルナアルの戯曲は恐らく、彼自身、小説家の余技として、その上にあまり多くの期待をかけてゐなかつたやうに思はれる。
自由劇場の没落後、その演劇論に一転機を与へようとしてゐたアントワアヌが、偶然、ルナアルの処女脚本『人参色の毛』を発見して膝を叩いた。何といふ美しき発見!
僕の座談は尽きさうにもない。
甚だ不体裁な序文であるが、今、稿を錬る暇が無い。
始めてルナアルの戯曲を紹介する責任上、仏蘭西文学に親しみの浅い読者の為めに、ルナアルの真価が、なるべく正しく認められることを希望する余り、そして、何よりも先づルナアルが好きになつて欲しさの余り、少々出しや張り過ぎた議論にまではいつた次第である。
最後に、重ねて云つて置く。
僕は、ルナアルに就いて何かを言はなければならないなら、寧ろ黙つてゐたいのである。なぜなら、僕は、あまりに多く彼に傾倒し、あまりに多く彼の芸術に酔つてゐる。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3
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