目らしく、時によれば「偉大らしく」「神々しく」見られるやうにはなつたが、さて、喜劇作家となると、何処やら、芸人らしく、狡猾らしく、軽薄らしく、つまり「小さく」「俗つぽく」見られる傾きがある。
 なほまた、文学全般について云へば、個人を描くよりも家庭を、家庭よりも一族を、団体を、社会を、民族を、人類を、宇宙を……と、人間の数が多くなればなるほど、ミリュウの範囲が広くなればなるほど、主題がさういふ点に触れてゐればゐるほど、その作品が「厳粛らしく」思はれ、「尊く」思はれ、「有がたく」思はれ、「偉大らしく」思はれる傾向がある。文学の内容論、作品に盛られる思想云々の議論もこゝから生じるのである。学問偏重、理窟万能、謹厳第一、法螺通用……これも、つまり、抽象は具体よりも「広い」といふ迷信である。抽象は具体よりも「深い」といふ迷信である。これは北欧文学の影響も大にある。尤も、さういふ点で優れた作品が日本にはまだ一つも出てゐないやうであるが。なるほど、或る意味に於て、個人よりも人類そのものゝ方が「大きい」には違ひない。一個の魂を取扱つた作品よりも「宇宙」の神秘を取扱つた作品の方が「大きい」に違ひない。
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