語るが如く、「観たこと」を正直に語るのである。たゞ彼は、自分が面白いと思つたことを、それだけ人にも面白く思はせる義務と呼吸とを心得てゐる。
「ね、面白いだらう」――ルナアルは、考へ込んでゐる聴手の肩を叩いて、さつさと行つてしまふのである。
聴手は、「面白い、しかし面白いだけか知ら」と思ふのである。「面白いだけ……」では勿体ない「面白さ」――さういふ「面白さ」だけでは何故いけないのだ。
ルナアルの芸術はそれである。
芸術にその他のものを望むことは誤りである。その他のものを加へることは勝手である。
「大きさ」の価値に対する迷信は東洋的である。
学問や芸術や職業の方面まで、その迷信は根を下してゐるらしい。大部の著書、大規模の作品が真価以上に珍重せられ、象の研究が蚤の研究より「大きな仕事」のやうに思はれ、同じ内科でも小児科の医者は何んとなく「小さく」思はれ、大工は指物師より、小説家は詩人より、五幕物作家は一幕物作家より、何となく「大きく」「偉く」「堂々たる」ものゝやうに思はれ勝ちである。
この迷信は、変な儒仏流道徳と結びついて、同じ劇作家でも、悲劇作家は紳士らしく文学者らしく、真面
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