@と、浪漫主義的ファンテジイとの極めて微妙なる融合である。ファンテジイとは理智的想像の遊戯である。作者の感興を以て人物の生活を程よく着色することである。此の着色によつて、作者の凝視する実人生の姿が、生々しき陰影を没して調和と休息ある世界に反映し、そこから一種のリリスムを反射するのである。
ルナアルは自然主義者たるべく、余りに現実の醜さを見透した――多くの傑れたる自然主義作家がさうであつた如く。そして、その醜さを醜さとして描く為めには、彼はあまりに詩人であつた――アルフォンス・ドオデがさうであつた如く。
劇作家としてのルナアルは愈々古典作家として仏蘭西劇の雛壇に祭り上げられさうであるが、ルナアルはまだそれほど老い込んではゐない。現代仏国の若き作家は、やうやくベックを離れてルナアルに就かうとしてゐる。
イプセン、マアテルランク、ドストイエフスキイ、これら外国近代作家の、それぞれの影響の中で、わがルナアルは、静かに後進の道を指し示してゐるやうに思はれる。
静かに――さうである。彼の声は聴き取り難きまでに低い。しかし、耳を傾けるものは意外にも多い。
『日々の麺麭』(〔Le Pain de Me'nage〕)は一八九八年三月、巴里フィガロの小舞台で演ぜられた。この時の役割は、ピエールに当代一の名優リュシヤン・ギイトリイ、マルトに同名にして才色兼備のマルト・ブランデスが扮した。
その後、「演劇の光輝と偉大さとを発揮せしめよう」と、古今の名作を選んで上演目録を編んだヴィユウ・コロンビエ座は、首脳コポオ自らの主演で此の作を舞台にかけた。
『日々の麺麭』とは家庭で常食に用ふる並製の麺麭である。それが何を意味してゐるかは一読すればわかる。
二人の人物は、何れも有閑階級の紳士淑女である。巴里社交生活を代表する相当教養ある男女と見ていゝ。
『別れも愉し』(Le Plaisir de Rompre)は一八九七年三月エコリエ社で上演せられ、現に、これも『人参色の毛』と共にコメディー・フランセエズの上演目録中に加へられてある。人物は、この方は、寧ろプチ・ブウルジュワとも称せらるべき小有産階級に属する男と、ドゥミ・モンドとまでは行かないが、それに似た寄生生活を営む独身無職業婦人、さういふ種類の女とである。
男は多分、会社か商店の書記であらう(彼が自負する唯一のものは「達者な筆蹟」で
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