本の読者は、仏蘭西の、少しよく喋舌る舞台上の人物の、細かく動く口許ばかりに気を取られて、それを、ぢつと聴き澄ましてゐる作者の底光りのする眼附きを忘れ勝ちである。
言葉の数は、必ずしも沈黙の量と反比例はしない。
ルナアルに於て特に然りである。
彼は、言葉の価値のみが沈黙の価値を左右することを誰よりもよく知つてゐた。
彼が「沈黙の詩人」――真に「沈黙の詩人」たる所以である。
舞台上の人物が、何か考へながら間を置いて物を言ふ――これは、さういふ人物だからである。舞台上の人物が、よく喋舌る――黙つてゐる時間が少い――それも、さういふ人物だからである。
傑れた戯曲は、人物が喋舌る喋舌らないに拘はらず、絶えず作者が人物の心の動きを追ひながら、そこから生命の韻律的な響きを捉へることに成功してゐなければならない。
寡黙な人物を好むことは勝手である。
饒舌な人物を厭ふことも勝手である。
要するに、作品の価値は、寡黙な人物が如何に描け、饒舌な人物が如何に描けてゐるかに在る。而も、寡黙な人物のみが登場する舞台は、よく喋舌る人物のみが登場する舞台よりも芸術的に優れてゐるとは言ひ難い。
作者は、寡黙な人物をして「下手な考へ眠るに若かざる」如き退屈極まる格言を吐き出さしめ、よく喋舌る人物をして「夜の更くるを忘れしむる」ていの魅力ある駄弁を弄せしむることを得るのである。
僕は嘗て拙訳『日々の麺麭』に対する某氏の批評に答へて、同氏の解釈する沈黙の価値なるものを駁し、現代日本作家(勿論僕自身を含むものと見て差支なし)が、徒らに「何を云つていゝかわからない人物」を、「何を言つても行き詰る人物」を、従つて作者と共に「語勢のみを張り上げて赤坊みたいな小理窟を遠くの方からぶつけ合ふ人物」を描いて、それで、「沈黙は金なり」などゝ納まり返つてゐるとすれば、少々身の程知らずであることに言及した。
文学は言葉の意味よりも幻象《イメージ》を、内容よりも効果を重んずべきである。
まして、ルナアルは最も「寡黙な男」である――勿論仏蘭西人としては。
こゝに於いて、最も寡黙な作家こそ、最も魅力あるお喋舌りを描き得るのだ、と云へないだらうか。
甚だ饒舌なる作家が、常に甚だ退屈なる黙り屋を描く、また故なしとせずである。
ルナアルの戯曲、殊に本書に収むる二篇は、云ふまでもなく、写実主義的観
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