た霊感が、独自の文体を生ましめる。それが作品の色調《トーン》を決定する。
 ルナアルの描く人物は、必ずしも常に機智に富んだ人物ではない。ルナアル自身の眼からは、その機智すらも愚かなる衒気と見えるやうな人物が可なりある。それに、作品そのものは極めて才気煥発といふ感じがする。極めてスピリチュエルである。これは、作中の人物以上に、作者の機智が光つてゐるのである。人物の言葉に耳を澄ましてゐる作者の眼――その眼つきが、人物以上に物を言つてゐるのである。これは、ルナアルに限らず、優れた喜劇作家の眼附である。繊細な心理喜劇が往々浅薄扱ひを受けるのは、此の「作者の眼」が見逃され易いからである。
 ルナアルは断じて浅薄な作家ではない。

 芸術家としてのルナアルの偉大さは、彼が聡明なペシミストであるが為めに、たゞそれが為めに、屡々凡庸な批評家を近づけない。
 彼は叫ばない、彼は呟くのである。
 彼は泣かない、唇を噛むのである。
 彼は笑はない、小鼻を膨らますのである。
 彼は教へない、眼くばせをするのである。
 彼は歌はない、溜息を吐くのである。
 彼は怒らない、眼をつぶるのである。
 そして彼は、友と語るが如く、「観たこと」を正直に語るのである。たゞ彼は、自分が面白いと思つたことを、それだけ人にも面白く思はせる義務と呼吸とを心得てゐる。
「ね、面白いだらう」――ルナアルは、考へ込んでゐる聴手の肩を叩いて、さつさと行つてしまふのである。
 聴手は、「面白い、しかし面白いだけか知ら」と思ふのである。「面白いだけ……」では勿体ない「面白さ」――さういふ「面白さ」だけでは何故いけないのだ。
 ルナアルの芸術はそれである。
 芸術にその他のものを望むことは誤りである。その他のものを加へることは勝手である。

「大きさ」の価値に対する迷信は東洋的である。
 学問や芸術や職業の方面まで、その迷信は根を下してゐるらしい。大部の著書、大規模の作品が真価以上に珍重せられ、象の研究が蚤の研究より「大きな仕事」のやうに思はれ、同じ内科でも小児科の医者は何んとなく「小さく」思はれ、大工は指物師より、小説家は詩人より、五幕物作家は一幕物作家より、何となく「大きく」「偉く」「堂々たる」ものゝやうに思はれ勝ちである。
 この迷信は、変な儒仏流道徳と結びついて、同じ劇作家でも、悲劇作家は紳士らしく文学者らしく、真面
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング