目らしく、時によれば「偉大らしく」「神々しく」見られるやうにはなつたが、さて、喜劇作家となると、何処やら、芸人らしく、狡猾らしく、軽薄らしく、つまり「小さく」「俗つぽく」見られる傾きがある。
 なほまた、文学全般について云へば、個人を描くよりも家庭を、家庭よりも一族を、団体を、社会を、民族を、人類を、宇宙を……と、人間の数が多くなればなるほど、ミリュウの範囲が広くなればなるほど、主題がさういふ点に触れてゐればゐるほど、その作品が「厳粛らしく」思はれ、「尊く」思はれ、「有がたく」思はれ、「偉大らしく」思はれる傾向がある。文学の内容論、作品に盛られる思想云々の議論もこゝから生じるのである。学問偏重、理窟万能、謹厳第一、法螺通用……これも、つまり、抽象は具体よりも「広い」といふ迷信である。抽象は具体よりも「深い」といふ迷信である。これは北欧文学の影響も大にある。尤も、さういふ点で優れた作品が日本にはまだ一つも出てゐないやうであるが。なるほど、或る意味に於て、個人よりも人類そのものゝ方が「大きい」には違ひない。一個の魂を取扱つた作品よりも「宇宙」の神秘を取扱つた作品の方が「大きい」に違ひない。然し、それは、たゞ飽くまでも「或る意味に於て」である。
 仏蘭西文学は、殊に仏蘭西の戯曲は、広大な視野、幽遠な幻覚の上に築かれなかつたことは事実である。然し、これが為めに、芸術そのものゝ「偉大さ」、芸術そのものゝ価値を疑ふ無定見に陥つてはならない。芸術が哲学と結び、宗教と結び、科学と結び、政治と結び、社会運動と結び、それはその結び方次第で、芸術としての存在が許されるだけである。
 芸術を哲学と結んで哲学的芸術を生んだのがゲエテであるとすれば、哲学を芸術と結び芸術的哲学を樹立したのがベルグソンであらう。芸術を宗教と結び宗教的芸術乃至芸術的宗教を作つたのがトルストイだとすれば、芸術を科学と結び、科学的芸術を試みたのがルノルマンであり、芸術的科学を編んだのがファーブルであらう。
 芸術を芸術のみによつて芸術たらしめようとする類ひの作家が仏蘭西には最も多い。早く云へば分業が発達してゐる。仏蘭西は、芸術家が思想を云々する必要が無いほど学者としての思想家が多い。若輩にして思想劇などを書けば、親爺が黙つてはゐないのである。
 ある種の「思想ある芸術家」は、その思想が思想として伝へられることを恐れるが
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