が、もつと頭を錬ることだ。もつと考へる力を作ることだ。もつと自由に感じ、自由に述べる事だ。その上で「言ふべきこと」と「言ひ方」との間を好みの色で塗り上げることだ。
われわれの日常生活は、もつと深く、もつと朗らかに、もつと調子よく、もつと楽しくなるだらう――少くとも傍観者にとつて。
劇作家は、そこから、もつと多くの霊感と暗示を受けるだらう。
ゴオルキイの描いた『どん底』にさへ、あの深さ、あの朗らかさ、あの調子のよさ、あの楽しさがあるではないか。それは悉く芸術家ゴオルキイの創造だと云ふのでせう。よろしい。日本の「どん底」に、あの「生活そのものゝ生彩」がありますか。いやさ、あゝいふ人物が一人でも日本にゐますか。あれほど「興味のある人物」がですよ。それは、露西亜人は、あの階級の人物さへ、「考へてゐること」が面白いからです。「考へ方」が自由だからです。「考へてゐることを上手に云はせる」のは作家です。露西亜人は――日本人を除いた何処人でも――「考へてゐることを上手に云ふ」事が不自然でないのです。何故なら、彼等は、「めいめいの表現」を有つてゐるからです。日本で若し、或る劇作家が、その作品中の人物に、「考へてゐることを上手に云はせ」たら、批評家はきつと、こんな人物は日本にゐないと云ふでせう。何故なら、日本人は「めいめいの表現」をもつてゐないからです。「考へ」のニュアンスを無視してゐるからです。お座なりと口上と紋切型が多すぎるからです。感情の表現がカテゴリックだからです。
「沈黙は金なり云々」の格言は、遂に、東洋流の解釈によつて、「咄弁は美徳なり」と同義になり、やがて、「月並な文句は粗服を纏へる真理なり」と敷衍せられ、遂に「退屈な話は人類を堕落より救ふ」とまで進んで来た。
僕は潔よく人類たることを辞退する。
議論がやゝ矯激に失したやうである。ルナアルが小鼻を膨らましてゐるだらう。
処で何の話しをしてゐたかと云へば、わがルナアルの戯曲についてゞある。
戯曲の文体――つまり対話の形式はいろいろあるだらう。第一作中の人物によつて違ふ。人物のコンディションによつて違ふ。然し、それらの人物の対話を通して、「作者独特の文体」といふものが論じられる。これは作者の素質である。
同じやうに傑れた才能を有つた劇作家が、同じコンディションの人物を描いて、之に同じ対話をさせても、作者の異つ
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