つて、立派に、「戯曲的生命」を伝へ得る磯会があるといふことだ。
 随分廻りくどいことを並べて来たが、いよいよ、本論にはひることにする。
 戯曲を文学として読む場合に、作者の幻象《イメエジ》が、そのまま読者の幻象となり得ることを、戯曲作家と雖も、小説作家と等しく期待してゐるのである。戯曲作家は、普通、「舞台を頭に置いてゐる」と云ふが、これが、「舞台など頭に置いてゐない」読者、乃至批評家の気に入らぬところらしい。しかし、さういふ手前味噌は意にかけない方がよろしい。万一「舞台」を頭におかなければ、面白くないやうな戯曲があれば、「舞台」を頭においても面白くないに極つてゐるのだ。ただ、「舞台」といふ言葉を、「戯曲の世界」又は、「戯曲の時間的空間的生命」といふ意味に解すれば、それはまた別だ。つまり、さうなると、劇場や俳優は問題でなく、作家の観察と想像が描き出す物語の一場面を、記憶と連想によつて立体化し、耳と眼の仮感にまで歴々と訴へ得る能力、これさへあれば、どんな戯曲でも、隅々までわかる道理である。そして、そこに、一脈の生命感をとらへ得たら、その戯曲は、読まれたことになるのである。
 当り前のことのやうだが、実際は、なかなか、これだけの仕事が、相当の修業(?)を必要とするので、第一に多くの読者に欠けてゐるのは、記憶の集中と、耳を通じて感じなければならぬ心理的リズムのキャッチだ。
 小説の鑑賞は、どちらかと云へば、印象の継続から成立つが、戯曲の鑑賞は印象の積み重ねである。
 翻つて、現在のわが戯曲壇を顧みてみよう。
 私は、今まで、戯曲批評に対する意見らしいものを述べたが、それは同時に、多くの戯曲作家――殊に、これから世に出ようとする人々と共に、私自身も亦、更めて取上げるべき問題なのだ。
 今日、新しい戯曲に関心をもつ人々は、異口同音に、かう叫ぶのである。
「昨日までの戯曲は、あまりにも文学的であつた。今日以後の戯曲は、より舞台的でなければならぬ」と。
 固より、新しい戯曲に志すほどの人々は、既成俳優の舞台に何等期待をもち得ぬことは云ふまでもなく、ここに云ふ舞台とは、より理想的な、より自由な舞台を指してゐることはよくわかるのであるが、さて、「文学的」であることが、「舞台的」でないといふ宣言には、可なりはつきりした条件をつけておかなければならぬと思ふ。即ち、「文学的」とは、狭い意味に
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