私は、前に述べた「戯曲至上主義者」の仲間と見られる惧れがある。そこで、私の意見を述べることにする。
 第一に断つておきたいことは、如何なる意味に於ても、理想から云へば、小説と戯曲とは、同じ尺度をもつて計るべきだといふ意見に、私は賛成したいことだ。
 これはつまり、人間の感受性が、極度に発達してゐれば、「言葉」の芸術は、帰するところ、単一な幻象《イメエジ》に到達すべきものであり、小説的価値と戯曲的価値とは、微々たる形式の限界を越えて、叡智のあらゆる襞に作用することは想像に難くない。
 これを、逆に考へれば、最も純粋且つ豊富な文学的作品は、その頂点に於て、一切の類型を超越した「美」の創造を企ててゐる。
 小説だ、戯曲だと騒ぐのは、抑も末の末だ。
 悲しい哉、私は、まだ、文学に対して、それ程の野心はもてない。そこで、小説だ、戯曲だと騒ぐわけであるが、まあ、そこまで突きつめて考へないまでも、既に、これまでの経験に於て、甚だ「戯曲的」なる戯曲、必ずしも優れた戯曲でなく、甚だ「小説的」なる小説、必ずしも芸術的価値ありとは云へないことを気づいてゐるし、殊に、意外とも云ふべきは、嘗てある小説の朗読を聴いて、私は、すばらしい「戯曲的」感動をしみじみと味つた記憶がある。
 そして、更に、声を大にして云ひたいことは、古来、東西の戯曲作家を通じ、その作品の芸術的高さを以て論じるなら、これを純然たる「戯曲」としてみる時に於てすら、大多数の専門戯曲作家は、小数の小説家兼戯曲作家に、遠く及ばない事実を発見するのである。
 私は、少し、小説家の肩を持ちすぎたやうだ。
 誰でも云ふことであるが、なるほど、小説は一人で読むものであり、戯曲は多数に見せるものだ。それゆゑ、小説は、いくら「高踏的」でもかまはないが、戯曲は、ある程度まで「普遍性」をもつてゐなくてはならぬ。従つてこの二つのものを、芸術的深遠さ乃至潔癖さに於て比較することは、元来無理である――と。
 しかし、私は、戯曲を多勢に見せるものと限る因襲的見解に服し難い。ここに少々贅沢な演劇愛好者がゐて、自分一人が見物するための劇場を設備し、自分一人のために俳優を傭つて、静かに幕をあげさせることが、果して不可能だらうか。
 これは、だが、譬へである。私の云はうとすることは、さうでもしなければ、上演の望みがないやうな戯曲も、ある種の「読者」をもつことに依
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