戯曲及び戯曲作家について
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幻象《イメエジ》に
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レオン・ドオデが、ジュウル・ルナアルの芸術を指して、「小ささの偉大さ」と呼んでゐるが、そのジュウル・ルナアルは、芸術家としてのエドモン・ロスタンをまた、「月並で、しかして、偉大」と評した。この二つの「偉大」といふ言葉には、それぞれ、評者の「使ひ癖」も現はれてゐるらしいが、兎も角、このパラドクサルな讃辞は、私に、作家の稟質といふ問題を考へさせると同時に、芸術の本体について少しく視野を拡げさせてくれるやうに思ふ。
私は、先づここで、戯曲のことについて語りたいのだ。さて、それを始めるに当つて、上述のやうな前置きが自然に浮んで来た。これは畢竟、私自身が、戯曲作家として、絶えず自分の仕事の上にもつ希望と疑ひから出てゐることはいふまでもないが、更に、公平な立場から、といふ意味は、一個の芸術愛好家としての見地から、文学の一様式たる戯曲の地位が、「文学的標準」に於て、他の様式、例へば小説に比して、遥かに「卑い」といふ概念を肯定し、しかも、その概念に、理論として一応の反駁を加へたいからである。
ここに、戯曲といふものに対する一つの観方がある。――それは、文学の一様式として、あらゆる文学的規範のうちに、他の諸様式と同一角度からの批判に堪へなければならぬものであり、小説を計る尺度は直ちに戯曲を律する尺度であつて差支へないとするもの、即ち、上演によつて生じる効果、又は、舞台化を想像しての価値は、おのづから別であつて、それは、文学としての戯曲批評の圏外であるとする解釈に従ふものである。
この議論は、文学の純粋性を飽くまでも高め育くむ上に於て、たしかに熱情に富む態度であるが、一方これとやや異つた観方をすることもできるのである。
それは、戯曲を文学の一様式として取扱ふことに反対はしないが、「戯曲文学」は、要するに、「詩文学」でも、「小説文学」でもないのであつて、戯曲を計るのに、小説を律する尺度を以てすることは凡そ意味をなさず、従つて、戯曲批評なるものは、その戯曲の上演、即ち舞台化の創造的全面を予想し得なければ、断じて成立たぬばかりでなく、そこにのみ、所謂、文学的価値の問題が悉く含まるべきであるとする解釈である。
この議論は、私に云はせれば、文学の多様性を徹底
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