的に主張するものとして、十分注意に値し、且つ、演劇芸術の進化と独立のために、誠に気強い態度であるが、果して、さう云ひきることが「必要」であるかどうか。
 そこで、再び、本文の前置きに帰らなければならぬ。
 ジュウル・ルナアルが、エドモン・ロスタンの戯曲(芸術)を評して、「月並で、しかして、偉大」と云つた意味は、察するに、彼れエドモン・ロスタンは、「小説家ルナアル」の眼からは「月並」であり、「劇詩人ルナアル」の眼からは「偉大」だつたのではないか。言ひ換へれば、仏蘭西劇壇の巨星ロスタンの芸術は、文学一元論者の前では、その価値の大部を失ひ、戯曲至上主義者の前で、初めてその文学的光芒を放つのであらうか?
 ところで、私は、仏蘭西の文壇に於てさへも、当時ルナアルの如き「ロスタン評」を数多く見かけない事実を指摘したいのである。つまり、ロスタンは、「偉大な」芸術家であると奉るもの、「月並な」作家にすぎぬと断ずるもの、この二つの党派が、それぞれ対立して相降らなかつたことである。
 この一例をもつてしても、戯曲批評の角度乃至観点に、どこか「曖昧さ」を感じないものはあるまいと思ふが、それも、まだ、幸ひにして仏蘭西の如く、戯曲が常に舞台を通じて発表され、作者の創造が作者の欲する俳優によつて遺憾なく評者の前に繰りひろげられる場合なら兎も角、わが国に於ては、少数の例外を除き、多くの新作戯曲が、殆んどすべて、活字のみによつて世に問はれなければならぬ状態にあつては、この「曖昧さ」が、一層痛切に、われわれの問題となるのである。
 ここでは、しばらく、「偉大」などといふ言葉を差控へよう。今日、何人と雖もルナアル流に、「月並で、しかして、達者な」脚本作家を、現在の日本に於て二三挙げることができるだらう。そして、これらの作家は、その「月並さ」のために、所謂、「文学的批評」の圏外に置かれてゐる。私は、それを、必ずしも不当とは思はぬ。何故なら、その「月並さ」は卑俗に近く、その「達者さ」は、多く「職業的熟練」にすぎぬからだ。しかしながら、それと同時に、「月並で、しかして、優れた」戯曲を、わが文壇の批評家は見逃がしてはゐないだらうか。しかも、その優れた部分こそ、戯曲のために、「月並で」あることをさへ幾分救つてゐるのだ。この観方から、「戯曲文学」の領域が開けて来るのだと思ふが、どうであらう。
 さて、かういふと、
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