於てであり、「舞台的」とは、新しい意味に於てであるといふ条件だ。
 なぜなら、私は、今日までの戯曲が、少しも、広い意味に於て「文学的」であつたとは考へられず、また、これまでの所謂、「文学的戯曲」の中にも、旧い意味では、「舞台的」でありすぎたものさへ決して少くないと思ふからである。
 私の考へでは、これからの戯曲が、その文学性を徹底させることによつて、より「舞台的」に進化の道を辿る以外、演劇は遂に滅びる運命にあるのだ。これは、演劇を文学に従属させよといふ意味ではない。寧ろ演劇が、文学の領域を拡大させ、文学に於ける戯曲の分野を、豊饒にし、且つ、多彩ならしめる、貴重な、そして、伝統的なる役割を継続しなければならぬといふのである。
 そこで、最後の問題として、多くの戯曲が、殊に、わが国現代の所謂芸術的新戯曲が、何故に、文学的レベルに於て、平均、小説の下位にあるかといふ機微な点を暴いてみよう。
 第一に、小説は、古来、わが国でも、既に幾人かの巨匠を生み、その光輝ある伝統は、十分に、現代の中に育つてゐる。然るに、戯曲の方面では、舞台の偏質的発達と共に、その伝統は、外国文学の移入によつて中断され、現代の新戯曲壇は、文学的に栄養不良の「親無し子」である。
 第二に、これは屡々云つた通り、優れた現代演劇のない国に、優れた劇作家の出る筈はなく、偉大な才能はまた偉大な自己愛護者であるから、名優の出演望み難き現代劇など書くよりも、小説を書いて、直接その価値を世に問ふことに、満身の熱情を燃え立たせるのである。
 第三に、余程、偶然の機会に、戯曲的表現に興味を覚えたものでなければ、大概の作家志望者は、文学的野心の対象を、分野の広い、好いお手本のある小説に向け、教養の高まるにつれて、また、自信がつけばつくほど、標準の低い戯曲からは絶縁してしまふのである。
 これに反して、文学的稟質の稀薄な、それでゐて、徒らに名誉心の強い青年が誤つて文学雑誌など読み耽り、偶々素人劇団の舞台でも見て歩くと、すぐに書いてみたくなるのは、「自分たちが喋るやうに書ければいいらしい」戯曲なのだ。
 第四に……。もうこれくらゐでよからう。こんなことをいくら云つてみても愉快ぢやない。それより、実は、かくの如き情勢のうちから、やはり、優れた戯曲作家が、これからは、少くとも、出て来て出て来られないことはないといふ希望を、私は持つて
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