erlinck, 1862−)が出づるに及んで、象徴主義の舞台は、完全に一つの様式をもつやうになつた。それと同時に、所謂「静劇」なるものの出現は、戯曲の文学的領土を拡大し、演劇的|幻象《イメエジ》の神秘な一面を附加するに役立つたのである。暗示と想念喚起の手法が、一九二〇年代の仏蘭西劇を、如何に導いたかを見れば、マアテルランクの影響も決して少くないと信じられる。
自由劇場没落後の仏蘭西戯曲界は、必ずしも象徴主義に走らなかつた。要するに、新浪漫主義の名称で一括されるべき「反写実」の傾向が、次第に頭をもたげて来た。
エドモン・ロスタン(Edmond Rostand, 1868−1918)の「シラノ・ド・ベルジュラック」(一八九七年)は、かかる機運を促進する一大警鐘となつた。なぜなら、この大時代で民衆的な韻文劇は、一見、「新劇的」ならずとの非難を受けさうであり、例へばアントワアヌの如きは、その初演の夜、見物席の中央に起ち上つて、「これでわが演劇は二十年後戻りをした」と叫んだほどであるが、なるほどさういふ落胆は尤もだとしても、ボオマルシェの「フィガロ」が傑作であつたと同じ意味に於てこれも亦傑作である事実を否むわけに行かぬ。ロスタンは飽くまで民衆的芸術家たる信念を以て、いきなり街頭に名乗りを揚げた。これが、写実劇の実験室的高踏性と相容れぬところである。ロスタンは、たしかに、平俗な主題を純粋な感情で高め、演劇の娯楽性を、その詩的才能によつて芸術化しようとする野心をもつてゐた。しかも、仏蘭西人なるが故に、仏蘭西人の趣味と性向とを、聊もこれに媚びることなく、朗らかに高らかに歌ひのめしたのである。これも亦、詩人には許さるべき天真爛漫の美徳だと考へることができる。これだけの前提をしておいて、さてロスタンには、天才的戯曲家といふ折紙をつけてもよく、その芸術に於ても、やはり一八八七年(自由劇場創立の年)以後の新機運に遅れてゐると断ずることはできない。なぜなら、その文体の凡そ古典的な匂ひのうちに、寧ろ自然主義作家の多くが企て及ばなかつた生命の躍動があり、その上、彼の詩的幻想は常に健康な舞台的脈搏を伴つてゐるからである。
イプセンと並んで、アウグスト・ストリンドベリイ(August Strindberg, 1849−1912)の名も、その徹底自然主義とも名づくべき深刻無比の男女争闘劇によつて、仏蘭西劇壇に大きな刺激を与へた。しかしながら、彼の作品の主調たる北欧的苦悶は、イプセンのそれ以上、ラテン的頭脳と相容れないものがあり、その影響は寧ろ独逸の劇作家中にこれを見ることができる。彼も亦その後期に於て象徴的傾向を帯びるに至つたが、近代劇の目指した一つの頂上は、疑ひもなく彼によつて占められたと云つていい。
最後に、露西亜劇は、トルストイの「闇の力」が自由劇場によつて演ぜられて以来、ゴオルキイの「どん底」、ゴオゴリの「検察官」等が紹介されたが、その他は多く翻訳として読まれたにすぎなかつた。大戦後、モスコオ芸術座の一行が巴里を訪れ、第一にチェエホフを上演して、この異色ある戯曲家の真価を完全に認めさせた。「桜の園」「伯父ワアニャ」「三人姉妹」等の諸作は、当時新機運に乗じた仏蘭西劇界に貴重な暗示を与へたことと思ふ。
モスコオ芸術座は一八九八年、スタニスラフスキイ及びダンチェンコの協力によつて、理想的な計画と基礎の上に建てられた世界一の芸術劇団であるが、その巴里公演(一九二一年)に際し、スタニスラフスキイは、公衆の前に立つて一場の挨拶を述べた。
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「われわれは仏蘭西の劇壇に何かを教へようとするものではありません。ただ、諸君にわれわれの仕事を見ていただきたいのです。このなかには、露西亜語のわからない方がおありのことと思ひますが、しかし、さういふ方々にも、われわれの演じる芝居は、七分通りわかつていただけるだらうと信じます」
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この宣言を聞き、そしてその舞台を観たものは、「近代劇はここまで来たのだ」といふ印象を受けたに相違ない。
更に、仏蘭西人は、スタニスラフスキイの祖母が仏蘭西人であり、また、彼はその青年期の一部を巴里で過ごし、国立演劇学校に通つたといふ報道を耳にした。
芸術的血統といふ問題に関連して、かういふ事実を思ひ出したのであるが、元来、ある作家が誰の影響を受けたといふやうな断定は、その作家にとつて迷惑なこともあらうし、また、意外な反証が挙る場合もあるであらう。
しかしながら、「影響を受ける」といふことは、多くの場合、偶々彼が自己のうちに有つてゐたものがそれによつて眼覚め、それによつて育てられるといふことで、如何なる外部的な力と雖も、自己のうちにこれを享け容れる同様のものがない場合は、全く赤の他人で終るのである。例へば大戦後の独逸劇壇を席捲した表現主義の如きは、かのストリンドベリイを始祖とするものといはれてゐるが、遂に他の諸国には波及することなく終つたのである。(日本劇壇の新流行を迎へ入れる動機はこれと全く別である。)
近代文化の歴史は、この原則なしに考へることはできないのみならず、文学の流派の消長、珠に戯曲の様式とその進化の跡を尋ねるに当つて、一時代、一傾向を代表する所謂「天才」の業績についても、専らその因つて来たるところ、その及ぼすところを究めようとする態度が必要であると思ふ。
三 近代劇の諸相
近代劇の諸相として、過去半世紀の演劇的現象を詳しく述べる代りに、多少無理なところはあると思ふが、所謂「近代劇」なる名称を以て呼ばれる「劇文学」及び「舞台芸術」を通じて、今日、漠然と感じ得られる若干の特色を挙げてみることにする。
そのためには、先づ「近代劇運動」の全貌を、文学上の流派的色彩や、個々の舞台芸術論から引離し、一応、演劇の革新運動といふ意味に結びつけて考へる必要があるのであつて、この「革新」なる言葉の目指す一切の意義こそは、やがて、歴史的に、近代劇を貫く重要な精神であらうと思ふ。
ところで、この「演劇革新」の叫びが、偶々自然主義勃興の時代に、最も痛烈な気勢を示し、最も根深く演劇の面貌を変ぜしめた結果から、この時代に君臨した作家及びその作品的主調が、最も「近代劇」の名に応はしく思はれがちであるが、時を隔ててこれを見る時は、近代劇の相貌は、より広く、より複雑なものであることがわかるのである。
そこで、私は、近代芸術の進化途上に於ける演劇並に戯曲の「ジャンル」としての研究に基いて、その革新運動の流れを、更に、「演劇の純化」といふ大きな、ただ一つの目標に導いて行けるのではないかと思ふ。
由来、演劇ぐらゐ「古く」なり易いものはなく、また、「夾雑物」のはひり易いものはないのである。
それと同時に、演劇ぐらゐ「新しいもの」「純粋なもの」が、生れ出るために障碍が多いものもないのである。
この事実を発見し、この意識を芸術的行動に連結させるといふことが、凡そ、演劇の先駆的役割であると同時に、演劇を他の芸術部門のレヴェルに引上げる唯一の道程でなければならぬ。
そこで、近代劇の諸相は、要するに、様々な見地と方法による演劇の革新運動であり、また芸術的純化運動であつたと観るべきである。そして、これを戯曲としての文学的所産から、舞台を中心とする劇場の実際運動にまで押し拡めて考へる時、大体次のやうな推移を見出すことができる。
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(一)演劇に近代精神殊に社会的苦悶乃至近代的人生観を盛ることによつて、一つの文学運動たらしめたこと。
(二)演劇の企業化に基くその営利主義的傾向に反抗して、一つの純芸術運動たらしめたこと。
(三)演劇の因襲的法則を打破し、その自由なる表現を求めたこと。
(四)演劇より非演劇的要素を排除し、その本質を探究せんとすること。
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さて、この第一の項目だけで、近代劇の特色は十分なやうであるが、それがさうは行かないのである。第一に、演劇は思想的内容だけで進化するものではない。更に、演劇より文学を排除せよといふ主張さへ、一方には起り得るのである。
ただ、演劇が近代文学、殊に写実主義文学の洗礼を受けたことにより、著しくその面貌を一新したといふのは、先づ現実暴露のメスによつて、舞台を「厳粛」な「人生の断片」と化し、所謂「第四壁」論による演劇的イリュウジョンが、「生命による動き」といふ重大な発見を齎したことに在る。
「生命による動き」といふ言葉は、自由劇場の闘士ジャン・ジュリヤンの演劇論中に用ひられてゐる言葉であるが、これは幸か不幸か、自然主義演劇の精神を伝へたつもりで、その実は、古今の演劇を通じて、凡そ不朽なるもののみが達し得た本質的魅力を喝破した名言なのである。
それまでは、何人も、演劇の本質は「動き」にありと信じ、その「動き」が舞台の生命となるのだと解してゐた。ジュリヤンは、この見解を「従来の演劇」にのみ当て嵌るものなりと説き、「動きによる生命の劇より生命による動きの劇へ」と、自ら標榜する自然主義劇の旗色を明かにしたのであつた。然るに、今日より見れば、「動きによる生命の劇」は、演劇の邪道であり、形骸であり、模造品であつて、「生命による動きの劇」こそ、希臘劇以来の劇的伝統――傑れた戯曲の、それによつて偉大さと光輝とを放つところのものであつた。
しかしながら、演劇と文学の握手は、文学の観念的深化に伴つて、一つの行きづまりを来たさずにはおかないのである。演劇の本質と文学の本質とが、その一点で、相背馳することとなる。
「考へさせる芝居」は、その窮極に於て、芝居として通用しないものになる。
が、そこまで行かない先に、演劇革新運動は、同時に、演劇の商業主義化に対する反撃となつて、芸術劇場の運動となり、高踏的小劇場の企画となつて、益々観客を制限するのである。
そして、偶々、新浪漫派の舞台的成功などあつて、小劇場派と大劇場派の分離が行はれる。大劇場派とは、営利的通俗派には走らないが、演劇の民衆性を強調して小劇場派の貴族主義的傾向に対立するのである。
ここで、近代劇の中に、民衆劇運動と称するものが加はつて来る。民衆劇であるから、一面に社会劇風の色調をも含むのであるが、それは次第に、擬古的な、原始的な、素朴味を貴ぶ祭典劇風なものに変化する。
小劇場主義と大劇場主義は、両極端に於て、心理的要素と感覚的要素とに分裂し、「聴く芝居」と「観る芝居」、「対話劇」と「スペクタクル」とに対立するのである。
その間に於て、故ら小劇場主義とか大劇場主義とかを標榜せず、単に、演劇の革新を目指して、それぞれ独創的な理論乃至新奇な試みを提示したもののうち、或は、演劇は綜合芸術なりとの説、或は、舞台装置の美術的効果に力点をおくもの、或は、演劇の革新は、舞台の完全なる機械化にありとなす説、或は、演劇芸術は、唯一人の芸術家の想意に統一さるべきものであるといふ説、即ち、戯曲家と装置家と舞台監督とを兼ねた一つの頭脳が、俳優を人形として操るところに真の演劇が生れるといふ説、その他、演劇より文学を排除し、「動性《デイナミスム》」による舞台の立体的表現によつて、演劇独自の物語を仕組まうとする企て等が相次いで行はれた。
が、結局、演劇は演劇自身によつて再生するよりほか道はないことに気づき、「演劇の再演劇化」といふ合言葉が、流行するやうになつた。
それはつまり、演劇革新の名によつて、様々な非演劇的要素を舞台に横行せしめた結果、遂に演劇本来の面目を失はうとする傾向を生じたからで、「演劇をして再び演劇たらしめよ」といふ叫びは、要するに、「演劇の本質を正しく認識せよ」といふ警告に外ならず、近代劇の多岐多端な流れは、この一標識に辿りついて、初めて、演劇の伝統といふ問題を取上げたのである。
演劇の芸術的純化といふ目標が、やうやく、本質的な意義を伴ふやうになり、幾多の理論と古今の劇文学的生産が、その真価と生命を、「純粋演劇美」の立場から再批判されねばならぬ気運に
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