≠獅р窒 Dumas fils, 1824−95)が、例の「椿姫」(〔La Dame aux Came'lias〕)を発表した。現実生活と人情の機微を穿つた「身につまされる芝居」の標本で、それが当時の見物、殊に女たちを泣かせたことは非常なもので、世界新派悲劇の傑作である。彼は、その後の数多き作品に於て、社会制度、夫婦関係等に一種の常識哲学的批判を加へ、所謂問題劇の道を拓いた。エミイル・オオジエ(Emile Augier, 1820−89)も亦、「ポアリエ氏の婿」に於て、漸く環境描写の筆を進め、革命後の新興勢力、即ち金権階級に対する相当鋭い批判を取入れた。然しながら、この両者が、かのスクリイブの直系ヴィクトリアン・サルドゥウ(Victorien Sardou, 1831−1908)と共に、商業劇場のための作者として一代の人気を集め得たことはそこに何等かの停頓を意味するのであつて、近代劇芸術の本質的進化は、そのために前途を暗くした感があつた。なほこの期間に、ラビイシュ(E. Labiche, 1815−88)がモリエエルを挟んで中世ファルスの伝統を復活し、近代諷刺劇の一階梯を作つた事実を見逃してはならぬ。
さて、十九世紀に於て、最も素晴しい発展を遂げた小説文学は、物質文化の成長とこれに伴ふ科学万能の精神に刺激され、次第に、機械的人生観の立場から個人を観、社会を取扱ふやうになつて来た。この傾向からバルザックを初め、フロオベエル、ゾラ、ゴンクウル、ドオデ、モオパッサン等の非凡な才能を生んだが、彼等は各々ある時機に於て、一度は劇作に筆を染めたのである。ゾラの如きは、後に「演劇に於ける自然主義」なる一書を公にし、大いに、舞台の写実化を宣伝した。が、何れも、その作品は戯曲的生命に乏しく、凡作の域に止り得るものすら稀であつた。
ところが、デュマ及びサルドゥウを友とする株式仲買人アンリ・ベック(Henry Becque, 1837−99)が、中年をすぎて、小遣取りにオペラの台本を書くことを思ひ立ち、やがて二篇の小喜劇を経て、遂に近代写実劇の典型、「鴉の群」を発表するに至つた。フロオベエルがかの「ボ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]リイ夫人」に於て成し遂げたところを、彼は、戯曲に於て完全に近くこれを示したのである。が、この二作の上演は、一般から冷淡な眼で迎へられた。この初めて舞台にのせられた厳粛な「人生記録」の中に、当時の演劇批評家は、真に戯曲的なものを発見することができず、ベックはために作家として不遇な生涯を終らなければならなかつた。
仏蘭西近代劇は、ここで、大きな飛躍時代にはひる。
一八八七年、即ち、「鴉の群」が発表された翌年、世界演劇史上、劃期的の事業と目される自由劇場(〔Le The'a^tre Libre〕)が、瓦斯会社の一集金人、アンドレ・アントワアヌ(〔Andre' Antoine〕, 1858−)の手によつて創立された。彼は、もともと一素人劇団の首脳にすぎなかつたが、ふと、素人俳優があるからには、素人作家といふものがあつていい筈だと考へ、周囲を見廻してそこに無名作家の一群を発見した。これが、新流派のために、そして新流派によつて起たんとする年少気鋭の徒輩であつたから、アントワアヌも、自ら期せずして、彼等の抱懐する文学論に与みせざるを得ぬやうになつた。彼の自然主義的演技の目標は、初めて確乎たる主張を有ち、ここにはじめて自由劇場の名に於て、演劇革新運動の烽火が挙げられることになつたのである。
自由劇場を繞る新作家のうちで、華々しくはないが、最も純粋な文学的立場を守り続け、透徹した自然主義演劇の理論づけを試みたのはジャン・ジュリヤン(Jean Julien, 1854−1919)であつた。彼は、その著「生ける演劇」に於て、「舞台は生活の断片なり」といふ名高い標語を作り出し、更に、演劇の本質を論じて、従来の「動きによる生命」の劇を排し、「生命による動き」(le mouvement par la vie)こそ真の演劇美を成すものであると喝破した。彼はしかし、有為な才能をその理論のために涸渇せしめた不幸な作家の一人であつた。
一八八七年から九五年まで、アントワアヌの手によつて世に出で、しかも、相当の名声を齎し得た劇作家はその数に於て決して少くはないが、今日まで、その作品の生命がなほ続いてゐると思はれるのは、クウルトリイヌ、キュレル、ポルト・リシュの三人であらう。
ウウジェエヌ・ブリュウ(〔Euge`ne Brieux〕, 1858−)は、最初から自由劇場の運動に参加した一人であつて、アントワアヌの名に連つて偶然世界的となり、バアナアド・ショウをして勇敢な提灯持ちの役を務めさせたが、これなどは、その真価を論ずる前に、彼の作品のもつ所謂「超民族性」について一応注意すべきであらう。雄弁に論議する劇は最も理解し易きものである。
ジョルジュ・クウルトリイヌ(George Courteline, 1860−1929)の小喜劇はモリエエルからラビイシュにつながる仏蘭西喜劇の伝統を代表する不朽の作品である。数多き珠玉的作品中からその代表作を選ぶことは困難である。また、一作を取り上げて、これを古今の傑作なりと称することは聊か気が引けるくらゐ「何気なき」風を装つたものであるが、先づ定評として、「ブウブウロシュ」(Boubouroche)「我家の平和」(La Paix chez soi)等を挙ぐべきであらう。一見平俗なやうに見える彼の文体は、近代ファルスの最も純粋な風格を創造し、現代世相の犀利な観察による比類なき道化味《ビュルレスク》は、天才の眼によつてはじめて伝へられるものである。
ジョルジュ・ド・ポルト・リシュ(Georges de Porte−Riche, 1849−1930)は、精密な恋愛心理の解剖家として、ラシイヌの衣鉢を継ぐ名作家である。アントワアヌに従へば、仏蘭西近代戯曲史の頂点は、ミュッセ、ベック、ポルト・リシュの三人によつて占められるといふのであるが、これは先づ何人も異議のないところであらう。彼は自然主義的苛烈さを有すると同時に、所謂「心理的詩味」の開拓者であり、その点で、既に純写実劇よりの離脱を示してゐる。その傑作の一つ「ふかなさけ」(Amoureuse)は、一八九四年の発表であるが、それから二十年を経て、同じく「過去」(〔Le Passe'〕)「昔の男」(Le Vieil Homme)の諸作と共にその影響が新しい時代の上に目立ちはじめたのである。
次に、フランソワ・ド・キュレル(〔Franc,ois de Curel〕, 1854−)は、一方ポルト・リシュが恋愛心理を追ひ廻してゐる間に、思索と瞑想の淵を逍遥して、北方の巨星、ヘンリック・イプセンの呼吸に耳を傾けた。彼も亦、時代の苦悶を苦悶し、生命の不安と闘つた。が、イプセンが飽くまでも北方的であるのに反し、キュレルは、兎も角南方的である。ラインに近いヴォオジュの森が彼の魂を育てたとはいふものの、その哲学は明朗若葉の如く、彼の描く人間の獣性なるものは、屡々微笑ましい姿を以て舞台に踊るのである。出世作「新しき信仰」(La Foi Nouvelle)は科学の破産を問題とした点に時代精神を反応したものであり、「鏡の前の舞踏」(La Dance Devant le Miroir)は、象徴的手法の円熟と戯曲的構成の柔軟さを示す代表作であるが、結局、観念の深さが概して劇的リズムに乗り切らないところが、彼の作品を通じての一つの致命的欠陥であらう。
自由劇場は、これらの偉才を見出す傍ら、外国の作家、殊に、ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen, 1828−1906)の「幽霊」を初めて仏蘭西の劇壇に紹介した。イプセンについては、他の部分で、独立した講座が設けられることと思ふから、ここでは例によつて、仏蘭西劇との交渉についてのみ語ることにしよう。
イプセンの戯曲は、その後、相次いで自由劇場は勿論、若干の小劇場で上演せられたが、間もなくプロソオルの翻訳が出版され、一八九〇年前後に亘つて、その反響は相当大きかつたやうに思はれる。イプセンに対する当時の批評を読み返してみると、なかなか面白い。無条件に感歎の叫びを漏してゐるものもあるかと思へば、また、一方ジュウル・ルメエトルの如き批評家は、イプセン畏るるに足らずといふやうな口吻を漏してゐる。その理由とするところは、「イプセンの有するものは悉く従来の仏蘭西文学中に存在したものであつて、今更彼の作品から何物も取入れる必要はない」といふのである。
恐らく若いジェネレエションの熱狂を戒めて、彼一流の婉曲な認め方をしたものに相違ない。
事実、イプセン的主題は、これを概念として見れば、その思想はダア※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ン以来既に「存在した」ものであり、イプセン的舞台技巧は、前にも述べた如く、スクリイブ以来の「うまく作られた芝居」に悉くその例を見出すと云つてもよく、また、「人物を生かす」才能に於ても、ミュッセとベックは既にその極致を示してゐるといふ風に云へるのである。しかしながら、イプセンは、今日から見ても、なほ且つ世界近代劇の最高峰と目さるべき理由があるのだ。それはつまり、平たく云へば、従来の天才的な仏蘭西劇作家が、個々に有つてゐたものを、彼は身一つに具へてゐたといふ驚くべき事実があるからである。しかも、これは決して、[#ここから横組み]1+1=2[#ここで横組み終わり]といふ公式を以てすら示すことのできない現象で、Aの特質とBの特質とが加はることによつて、別にCの特質が生れるものなのである。即ち、イプセンに於ては、近代劇作家としてのあらゆる才能が、渾然としてその作品の偉大な力を築き上げてゐるのである。
戯曲家としてのイプセンは、かういふ見方をしなければ理解し難き存在であると私は思つてゐる。イプセンの思想や、その創造になる各種の典型的人物について論ずるのもいいが、それだけでイプセンの戯曲は味へない。
そこで、イプセンの仏蘭西戯曲壇に及ぼした影響についても、決してその局部的なものを見ようとしてはならぬ。無論、中には、キュレルの如く、所謂「イプセン流」と称せられる思想劇に向つたものもあるが、この「考へさせる芝居」の勃興は、近代劇の一エポックを作りはしたが、やがて、その反動も生じ、理論的にも実際的にも、戯曲論上の疑問を生むことになるのである。
が、兎も角も、恋愛劇乃至世相劇全盛の仏蘭西の舞台に、幾分でも「意志」と「運命」の悲劇が現はれだしたこと、これはたしかにイプセンを初め北欧作家の感化であらう。
自由劇場は、その他、外国作家として、主に独のハウプトマン、露のトルストイ、等を紹介したが、自由劇場の運動は、忽ち、全欧洲に演劇革新の機運を齎し、独、英、露等の諸国に於て、同様舞台の写実化乃至大劇場の商業主義に反抗し、新作家の発見擁護に努力する芸術劇団の創立を見た。
仏蘭西に於ても、これを期として、二三この種の劇場が、それぞれの主張を以て生れたが、なかでも、ルュニェポオの制作劇場(〔La Maison de l' OE&uvre〕)は、主として外国劇の先駆的傾向を取入れたが、ストリンドベリイの紹介は、最も意義ある仕事であつた。
一方、「戯曲は飽くまでも演劇的ならざるべからず」と称し、明かに自由劇場的「生活の断片」劇に対抗して、ポオル・フォルの「芸術座」(〔Le The'a^tre d'Art〕)が生れた。そこでは、ヴェルレエヌ、グウルモン、ラフォルグ、マラルメ等の詩人の後援によつて、先づ、詩の朗読が行はれ、次で詩的戯曲の上演が企図されたが、遂に予期の成果を収めることはできなかつた。
が、その頃、既に、仏蘭西文壇の主潮は、写実主義よりの離脱に向ひ、象徴主義の運動が漸次勢力を占めつつあつた。
イプセン後期の作品、ストリンドベリイのある作などに於て、象徴的傾向は十分見られるのであるが、白耳義の作家、マアテルランク(Maet
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