Nivelle de la Chausse'〕, 1692−1754)の「涙ぐます喜劇」が、影は薄くとも、第一に近代中産階級劇のトップを切り、悲劇と喜劇の固定型を破つて、仏蘭西に於ける新しい戯曲のジャンルを決定した。この頃から、十七世紀以来、総てのものの頭に食ひ入つてゐた――「人の性は悪なり」といふ観念が「人の性は善なり」といふ思想に代つた。ショオセを初め、この時代の劇作家は、勿論、この立場から人間を見た。喜劇は最早、単に人を笑はせるものでなくなつた。正しい人間の道徳感にある波紋を与へればいいのである。この楽天主義は、そのままの姿で続く筈はないが、逆に、近代厭世思想の上に、多少とも明るい微笑を投げかける習慣を与へたといへるのである。そこへ、シェイクスピヤの翻訳と翻案が続々と現れはじめた。ディドロが、例の戯曲論を発表した。曰く、「悲劇と喜劇の間には、真面目な劇といふものがなければならぬ。更にまた、真面目な劇と悲劇、また喜劇の間に幾つかの階梯があるに違ひない」
戯曲ジャンルの混淆から、戯曲ジャンルの新発見に進んで来た。が、ディドロの百の議論よりも、当時の沈滞した劇壇に一風変つた意見を以てのぞみ、その「劇芸術論」に於いて、演劇に於ける写実主義《レアリズム》の歴史を開いた一人の作家に注意すべきである。彼は、メルシェと呼ぶ微々たる才能にすぎなかつたが、その云ふところはかうである――「書斎の中に材料を求めず、出でて実人生の頁を繰れ」。が、後にも先にも、十八世紀を通じて、唯一人天才の名に値する劇作家は、実は、本来の文学者ではなく、たまたま道楽に芝居を書いた一事業家であつた。
「セヴィラの床屋」の作者、ボオマルシェ(Beaumarchais, 1732−99)は、内容と文体とトリックの三方面から、空前の舞台的成功を収めた。しかも彼は、その傑作「フィガロの結婚」に於て、遂に仏蘭西革命の予感を時代の人心に植ゑつけた。民衆の声が初めて劇場にはひつたのである。彼の戯曲家的血液はどこから受け継いだか? 父系の一人にモリエエルのゐることはたしかだ。或は、デュシスの翻案を通じてシェイクスピヤの香を嗅いだかもしれぬ。が、時計屋の息子から宮廷の音楽教師となり、金持の未亡人を二人まで籠絡し、裁判に破れて牢に投ぜられ、冤されてルイ十六世の秘書役を勤め、米国の独立戦争に武器を売りつけ、巨万の富を蓄へた瞬間無一物となり、路傍に餓死するに至るまで、彼ほど世相の表裏に通じ、社会の上下を泳ぎ廻つたなら、そこから、無限の劇的霊感も受け得られようではないか。
彼はしかし、それほどの傑作を書きながら、なんとなく人が真面目に取らないのである。つまり、ボオマルシェは天才だといふのを聞いて、多くの人は、あんな巫山戯た天才がゐるかしらと思ふのである。それでも、ある批評家は、彼に「近代劇の父」といふ名を奉つた。と同時に、「ボオマルシェ、又の名はフィガロである」と宣言する。フィガロは皮肉で、敏捷で、図々しくて、マテリアリストで、磊落で、意地ツ張りで、傷み易い心の持主である。彼は、たしかに、五十年ばかり早く生れすぎたといふ説もある。「近代劇の父」といふ名はそれでわかるとして、またかうも云へるのである――「ボオマルシェはたしかに、仏蘭西劇を沈滞から救つたが、その救ひぶりがあまり鮮かであつたのは、彼の作品中に、演劇の堕落が悉く約束されてゐたからだ」と。
なるほど、近代に於ける「うまく作られた芝居」は、悉く「フィガロ」の落し胤に相違ないのである。
仏蘭西革命が総てを破壊した如く、ボオマルシェの投じた一石は、劇壇にも、一時、無気味な沈黙状態を現出させた。何人も「新しい方向」に踏み出す勇気を失つたかの如く見えた。
ただここに、ネポミュセエヌ・ルメルシェといふ、変な名前の男が、「おれが、二十二日間で、今まで芝居の畑になかつたやうなものを芝居のなかへ取り入れて御覧に入れる」と豪語し、その約束を実行した。「歴史喜劇」なる新様式を発明したのである。ところでそんなものを発明はしたが、批評家の多くは、それを「歴史でもなく喜劇でもない」と断定した。それにも拘はらず、四十年後に、スクリイブがこれに倣ひ、百年後に至り、エドモン・ロスタンが幾分、その手法を踏襲したと思はれる。
革命時代及び帝政時代は、演劇的不毛の期間であつた。が、それは、浪漫主義の陣痛期に外ならぬ。
やがて、ヴィクトオル・ユゴオ(Victor Hugo, 1802−85)が、戯曲「クロンウェル」を発表し、その序文に於て、浪漫劇の主張を振り翳した。
彼は先づ、「人生そのものは、支離滅裂にして、矛盾撞着に充てり」と云ふ。それ故、戯曲も亦、条理整然たるを要せずといふのである。次に「戯曲の革新は、第一に文体より始めざるべからず」と云ふ。彼は韻文を棄てなかつたが、詩形に若干の自由を求めた。また「長台詞を封ぜよ。人物をして自ら語らしめよ」と云つた。彼は、舞台上に人間の全貌を描き出す野心を示した。政治的英雄が同時に家庭の玩具であり、戦場の勇士が、下手な詩人でありといふ風にクロンウェルを取扱つた。その意図は兎に角、それがためにこの戯曲は上演不可能なものとなつた。その後で「マリオン・ドロルム」を書き上げたが、これは思想過激とあつて検閲が通らなかつた。一八三〇年、遂に、「エルナニ」の幕が開いた。人、これを呼んで「エルナニ」の戦ひと云ふ。それほどこの戯曲初演の当夜は、物情騒然たるものがあつた。見物席は敵味方に分れて怒号し、弥次と喝采が入り乱れた。が、最後に、浪漫主義の勝利が宣せられた。
彼ユゴオは、その実、生涯を通じて、真の劇作家となり得なかつた。詩人としての巨人的歩みにも拘はらず、戯曲に於ては、徒らに空想が言葉の虹を撒き散らすにすぎず、やうやく、ラシイヌの十二韻詩《アレクサンドラン》が、一世紀を跨いで彼のペンに蘇つたにすぎぬのである。かくて古典主義劇の残塁に馬を進めながら、彼は遥かに先輩ラシイヌに脱帽したと私は信じるのである。その少し以前に英国俳優の一団が、海を越えて、巴里へ乗込んだことを特記せねばならぬ。最初は、一八二二年、出し物はシェイクスピヤの「オセロ」であつた。見物は、「大笑ひをした」と記録にある。そればかりではない。「けだもの」といふ半畳がはひる。生卵をぶつける。焼林檎を投げる。「シャケスパアル引つ込め」といふ始末であつた。
それが、一八二七年に、ケンブルがその一座を率ゐて「ハムレット」を出した時、殊に、一八二九年、別の一座が「オセロ」と「コリオラン」を上演するに及んで、シェイクスピヤの声価は定つた。見物は無条件に、この異国の天才を享け容れたのである。殊にすさまじい熱狂の声が、若い劇壇の中に起つた。
舞台の上で、ほんとに涙を流す俳優を、巴里の見物ははじめて見たのである。スミスソンといふ英国女優は、その時、オフェリヤに扮して、本物の狂女といふ印象を与へた。殊に、剣で刺されたり、毒を飲んだりする場合、眼もあてられぬ苦しみ方をするので、見物の女達は顔を蔽つた。
シェイクスピヤの捲き起した旋風のなかで、わがヴィクトオル・ユゴオは、「クロンウェル」の序文を綴つたのであつた。彼は、ペンを投げて叫んだ――「この芝居の神様は、コルネイユとモリエエルとボオマルシェの天才を一人で背負つてゐる」と。
が、シェイクスピヤから、最も好い影響を受けた浪漫派の劇作家はヴィニイ(Alfred de Vigny, 1797−1863)と、ミュッセ(A. de Musset, 1810−57)である。
この二人は、ユゴオの如く喬木の感じこそしないが、その劇作家的才能に於ては、遥かに緻密豊富であり、その異常な感受性は、単にシェイクスピヤばかりでなく、バイロンからも、ゲエテからも、同様に、享け容れるものを享け容れ、ヴィニイは、「チャッタアトン」「アントニイ」の如き、粉飾を去つた世紀的苦悶の劇を書き、殊に、ミュッセは、柔軟繊細な近代的感覚を以て、ラシイヌの古典美とシェイクスピヤの野生美とを、併せてその作品の上に盛り、嫋々たる微風に沈痛な面を晒すが如き、正にユニックな喜劇を物したのである。
ミュッセは、その処女作、「ヴェネチヤの夜」が舞台的失敗に終つた結果、その後、上演を断念して、自ら「書斎で観る芝居」なるものを書き続けたが、これが、作者の死後、今日に至つて、観客の心を酔はす比類なき近代古典の中に数へられてゐるのである。
序に云ひ漏してはならぬことは、この期間に於ける独逸劇の侵入とその反響である。
ゲエテの小説「ヴェルテル」が、一七七五年に脚色上演され、続いて、その翻訳が現はれて、仏蘭西の劇壇及び読書界に一大衝撃を与へた。が、それはあの偉大な純情と絶望の詩が、スタアル夫人の所謂「感情的及び政治的理由」によつて、革命直前の人心を捉へたのである。かくて仏蘭西浪漫主義は、ゲエテのうちから、「独逸的浪漫主義」を摂取した。次で、「ファウスト」の第一部が、一八〇八年、スタアル夫人の管理してゐる素人劇場の舞台で初演されたが、一八二八年、ジェラアル・ド・ネルヴァルの名訳が出版され、その深い哲学的瞑想が、やうやく当時の新精神に食ひ入つた。ここでも亦、ヴィニイとミュッセが、それぞれファウスト的の「不安」をその作品中で示してゐる。なほ、面白いことには、ずつと降つて、エドモン・ロスタンとアンリイ・バタイユが、何れも、「ドン・ジュアン」を描くに当つて、「ファウスト」の知的懊悩をさながら、その恋愛的懊悩の形に於て取扱つてゐるのである。
十九世紀前半の喜劇作者を代表するスクリイブ(〔Euge`ne Scribe〕, 1791−1861)は、所謂「抽斗劇」と呼ばれるトリック万能の通俗劇作家であるが、その豊饒さと娯楽的要素によつて、当時の商業劇場を風靡し、なほ、国境を越えて英独伊等の劇壇を賑はした。
彼はある意味でボオマルシェの不肖の子とも考へられるが、それよりも、重大なことは、この一作家の存在が、十九世紀後半の所謂「新劇運動」に非常な障碍を齎したことである。のみならず、独逸に於ては、名批評家シュレエゲルをいたく感心させ、そのある作品の如きは、正にモリエエルの「人間嫌ひ」以上といふ折紙を附けさせるに至つた。
ルイ・フィリップの治下に於ては、もう劇場は一つの工場と化してゐた。
若い浪漫主義は、デュマ(〔Alexandre Dumas pe`re〕, 1802−70)と共に老い、スクリイブが十五年間に百五十の軽喜劇を書けば、デュマは、年に六十巻の小説を書く傍ら、一シイズンに十五乃至二十幕のチヤンバラ劇を上場せしめる有様である。
その間、ただ一つポンサアル(〔Franc,ois Ponsard〕, 1814−67)の「リュクレス」といふ作品の上場が、「|良識の《ボン・サン》劇」なる一流派をうち樹てた。「良識の劇」とは、要するに、浪漫主義の矯激を排し、穏健着実な古典精神を近代意識のなかに生かさうとする韻文劇であるが、どこかにまだ浪漫的な装飾を残してゐることは争へない。これが一八四三年のことであつた。
ポンサアルの「リュクレス」が一方で盛んな喝采を浴びたのに反し、その年、ユゴオの「ビュルグラアヴ」(Les Burgraves)が国立劇場で、無残な失敗を招いた。作品の罪といふよりも、寧ろ、見物が過剰なリリシズムに飽きたのである。
皮肉と云はうか、この時に乗じて、天下の名悲劇女優ラシェルが、同じ劇場の舞台に現はれた。すると、二十年来、絶えて客を惹かなかつたラシイヌ、コルネイユの古典悲劇が、忽ち見物席を満員にした。
一八五〇年は、バルザックの死んだ年である。(序に云へば、イプセンが二十三で、その韻文史劇「カテリナ」を発表した年だ。)
時代は急転する。所謂「近代精神」の色調が濃厚になり、仏蘭西の演劇史も亦、これ以後を現代と呼ぶのである。
小説壇は、既にバルザックの作品によつて写実主義の黎明を告げ知らせた。その影響は、勿論戯曲界にも及んで、一八五二年、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alex
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