到達したのである。
これこそ、近代劇運動の総決算的収穫であり、現代演劇の受け継いだ最も貴重な遺産であらうと思ふ。
四 近代劇の遺産
前項、「近代劇の諸相」は、即ち、「現代の演劇」及び「現代戯曲の諸傾向」中にその脈絡を存してゐるものである。その意味で、本講座に於ける山田肇、山本修二、舟木重信、岩田豊雄、原久一郎諸氏の行き届いた研究を参照して欲しいと思ふが、凡そ芸術上の端睨すべからざる主義主張と、一見前人未踏の境地に分け入つたと思はれる個人的実績との夥しい錯綜のなかに、確乎たる歴史的意義を見出すことは、相当の時代を隔てない限り容易ならざることであり、今仮に「現代の演劇」を通じて、誰々の事業、誰々の作品が、既成観念の上から、「近代劇」の正統に位ゐするものであるといふ認定を下すとしても、それは最早、演劇としての価値批判にはならないのである。
この見地から、私は、所謂「近代劇の亡霊」を封じ、真の劇的伝統に眼を注ぐことを以て、この小論の目的としたいのである。それ故、「近代劇の遺産」として、演劇の本質探究に関する当面の問題を捉へることが、最後に残された仕事であると思ふ。
先づ「劇的」といふ言葉について、われわれは今新たな考察を加へなければならぬ。それには「劇的」即ち「ドラマチカル」といふことが、「演劇」乃至「戯曲」の本質であるかどうかといふ疑問をここで起してみる必要がある。普通用ひられてゐる意味での「劇的」といふ言葉は、「小説的」といふ言葉と同様、極めて概念的な形容詞であるが、小説に於て、所謂「小説的」(ロマネスク)なることが、作品の価値を評価する上に、第一義的要件でないといふことは、少くとも近代の文学論に於て一般に認められてゐる事実であるのに、ひとり、「演劇」乃至「戯曲」に於て、飽くまでも、所謂「劇的」なる要素を、本質的生命と結びつける習慣が継続されてゐるのは、どうしたわけであらう。
小説に於て、「散文精神」の発見があり、詩に於て、「自由詩」の運動から「純粋詩」の理論に到達した過去半世紀の文学史が、独り、「戯曲」の本質を、旧来の原始的、自然発生的解釈に委ねておいたことは、実に不思議な時代錯誤であつて、これは正しく、「演劇」なる芸術形式の複雑さを証明する以上に、「演劇」と「文学」の完全な接触が企図されなかつた結果であらうと思ふ。言ひ換へれば、かの戯曲の文学的発展が著しく目立つた写実主義擡頭期に於てさへ、「戯曲」が常に「演劇」のために作製され、未だ嘗て、「戯曲」のための「演劇」が何人の頭脳をも支配しなかつたといへるのである。更にもう一歩を進めて云へば、舞台を予想しない戯曲、所謂「読む戯曲」の発生を促がした動機さへも、十分に闡明されず、「戯曲」なる文学の一ジャンルは、小説と詩の間を低迷して、自ら信ずべき領域を遂に自覚し得なかつたと考へられる。
一般に「劇的感動」と称せられるものも、なるほど古今の傑作中からこれを受けることが尠くないが、この感動が純粋な芸術的感動であるかどうかは、案外説明のつきにくいものである。まして、この「劇的感動」なるものは、常に優れた戯曲の価値を決定せず、殊に、喜劇に於て、これを本質的生命と見做すことはできないのである。してみると、「劇的」なる言葉の内容は結局、「悲劇」を演劇の代表形式とし、演劇論の骨子が、実は「悲劇」の上に組立てられた時代の名残りを伝へてゐるともみられ、それと同時に、演劇の大衆性といふことが、戯曲の文学的評価に知らず識らず影響し、通俗的興味をつなぐための、物語の主題乃至技巧上の必要条件が、真の芸術的要素と混合された結果ではあるまいかと思はれる。
「生命による動き」を標榜した自然主義劇の行きづまりは、所謂「うまく作られた芝居」を排したことによつて、ある意味での「劇的要素」を軽視したからだといふ説は誤りである。それどころか、自然主義劇の大多数は、「劇的」境遇を濫用さへしてゐるのである。そこに堕落があり且つ矛盾がある。勿論、文学的抱負に於て敬意を表すべきものさへ、殆ど共通の過失を犯してゐる。即ち、戯曲に於ける「散文的なもの」の重視である。散文精神は「戯曲」によつても生かされ得るといふ誤謬を信じてゐるのである。
仏蘭西の名小説家、フロオベエル、ゾラ、モオパッサン、ゴンクウル、等々は、何れも戯曲に筆を染めて、惨めな結果を示してゐる。これらの作家は、何れも、あつさり舞台を見限つたらしいのは賢明といふべきである。
これらのグルウプから、ただ一人、ジュウル・ルナアルが、「生命による動き」の戯曲を、天衣無縫の形に於て示し得た。異例とすべきである。なるほど、彼は、詩的にして、且つ散文的なる、一種独特の精神を創造し、完成した。彼の戯曲が、偶然、その精神の故に、新しき意味に於ける「戯曲の本質」を捉へ得たといふ事実は注目に価する。
詩がリズムを、散文(小説)が観念を生命とするなら、戯曲は、「観念のリズム」或は、「リズミカルな観念の抑揚」を生命とするものである。(この場合、リズムといふのは、詩に於ける如き言葉の音声的リズムではなくて、思想或は感情のリズミカルな波動である。)観念のある程度以上の探さは、このリズムの破綻を伴ひ、リズムのテンポは、観念の一定の流動を強要する。そこに、戯曲の第一の限界《リミット》があるのである。第二の限界《リミット》、これは通常、「戯曲の制約」の一つとして誰でも知つてゐることであるが、戯曲作家は、自ら「物語」を語るのでなくて、「物語」自身に「語らせる」といふことである。即ち人物をして、一切を語らせなければならぬといふこと、作中の人物が、作者に代つて、作者の語るべきことをさへ語るといふ「不自然さ」である。ある数の幕を切るとか、一定の時間内に終るとか、主人公がなければならぬとかいふのは、別に、根本的な制約ではない。さて、これら、二つの限界《リミット》といふものは、実は、戯曲にとつて、「邪魔」なものではなく、「必要な」ものなのである。この限界は、詩の「約束」に類する「戯曲美」発生のルツボであつて、所謂、新しき意味の「劇的感覚」とは、このルツボを通して流れ出る観念とリズムの融合美を、最も純粋に感じ得る能力である。
戯曲に於けるこの「観念」なるものを、特に、「心理的イメエジ」と呼んで差支ない。
演劇に於て、このイメエジは、「聴官」と「視官」とによつて、ある時間内に、誘導的に感覚され、知覚されるが、この耳と眼に愬へるイメエジのリズムは、即ち演劇美を構成する要素で、それがここでまた舞台なる空間的制限と、俳優の肉体的条件といふ、別なルツボを通過しなければならぬ。
さて、このルツボを通して最後に観客に愬へるものは、厳密に云へば、作者と、人物と、俳優、この三つの生命の同時的「滲出」である。この三つの生命がそれぞれ別々な力で観客に働きかける時、印象の不統一から来る感銘の混乱が生じ、そのうちのある一つを無視しても、完全な演劇鑑賞とはいへないのである。
演劇に於ける「美」の本質は、かくの如く複雑であり、その完全な表現は、誠に難しとされてよいのであるが、その結果は、一に俳優を得るか得ないかに存し、この意味で、演劇そのものは、俳優の手に運命が委ねられてゐるといへるのである。
舞台監督の所謂「演出」(〔mise en sce`ne〕)なるものが、「演劇美」の如何なる領域に、その統制力を発揮し得るかといふと、主として視官に愬へる舞台の造形的イメエジに於て、戯曲の指定せざるエフェクトの適用と、俳優自身の意識外に拡大するイメエジの規整とを考慮しつつ、戯曲の「リズム」――即ち、「心理的流れ」に、最も適切な全体的|色調《トオン》と、必要な傍線(アンダアライン)を加へることである。
舞台監督の第一の役割は、俳優と同じく、「戯曲」の精神並に「リズム」を正確に捉へるといふことであるが、それから以後の任務は、原則として、俳優の領域を冒すことなく、俳優の演技を極度に且つ隙間なく戯曲の立体化に役立たしめる「非人称的」コンダクタアたることで尽きるのである。
しかしながら、偶々、戯曲の性質に応じて、演出といふ仕事が、演劇の、より以上広大な領域を占める場合もないではない。それは主として、戯曲中の人物が、それぞれ一個の生命をもつて生活してゐるといふよりも、各人物の多少機械的な動きとの対立から、場面場面の生命感を作り出してゐる、乃至は、作り出さねばならぬやうな戯曲に於て、特に然りである。
この種の演劇は、近代に於ける非写実的傾向のものに多く、同じ、写実劇でも、例へば、群集を用ひたものなどはその部類に属すべきで、舞台監督の責任が次第に重大となり、その権威が絶対的とまでなつた近代演劇の主潮は、一応合理的であるといつていい。
が、この演出万能主義は、舞台に未だ嘗て見ざる統一と造形的工夫を齎したが、それと同時に、若干の弊害を残したことを看過するわけに行かぬ。
即ち、演出家の戯曲冒涜と、俳優機械視である。如何なる戯曲をも、自己の好みに着色し、引き枉げる無謀と、一切の俳優を演技の上で拘束し、命令する大胆との、衒学的傾向である。
理論として、この演劇システムは、単純で、華やかで、活気に富んでゐる。そこに誘惑の陥穽があり、実行の行きづまりがある。
演劇の一要素として、舞台装飾(舞台照明、舞台衣裳を含めて)を挙げるのが順序であらう。これは演出家の意図に従つて、舞台美術家が考案製作に従事すべきものであるが、これを演劇の最も重要な要素と考へることは、これまた近代演劇の過渡期に於ける迷妄である。なるほど、演劇の「視官」に愬へる部分、即ち造形的要素の一部であるといふ点に異存はないが、これは要するに、戯曲の「附属設備」である。人物の「生活する」状態を説明する一手段である以上、必要なものには相違なく、従つて、ある程度まで演劇の本質に触れるのであるが、結局、一般に考へられてゐるほど重要なものではない。但し、演劇の構成は、前に述べた如く、複雑極まるものであるし、時によると、第二義的なもの、附帯的なもの、殊に、本質を本質として活かすそれぞれの「材料」の価値によつて、決定的効果を挙げ得る場合もあるのである。
この問題については、当然後で述べるが、舞台装飾も亦、ある戯曲の演出に於ては、演劇の本質的価値の発揮に、恐らく俳優の演技以上、重要な役割を演ずる異例がないでもない。
が、通常の場合、戯曲さへ傑れたものであれば、その戯曲の本質的魅力は、「裸の舞台」に於ても、十分にこれを発揮し得るといふのが、正しい主張である。
そこで、舞台装飾の必要、且つ、重要な度合は、上演する戯曲が、本質的に、所謂「スペクタクル」的要素を含んでゐる度合に比例するのが当然であり、また一方、如何なる演劇も、本質的に、多少とも、「スペクタクル」の要素を含んでゐないものは稀だといつてもいいのである。ただ、飽くまでも、所謂「スペクタクル」は、厳密な意味で、演劇ではない。少くとも、「スペクタクル」の要素を主とする演劇は、優れた演劇にはなり得ないのである。何となれば、「文学」を軽視した演劇なるものは、音楽を主体とする「舞踊劇」を除いては、如何なる意味に於ても、芸術的感銘に於て幼稚さを免れないからである。
さて、戯曲乃至演劇の本質といふ問題について、簡単ながら説明を終つたと思ふが、なほ附け加へておかねばならぬことは、抑もその「本質」なるものは、戯曲乃至演劇の価値と如何なる関係があるかといふことである。
話を前に戻せば、戯曲乃至演劇の「本質」を説く場合に、所謂「劇的」(ドラマチカル)なる言葉の、普通の意味に於ける解釈では、これを適用することができないといふのが、今までの論旨であつたが、それならば、「劇的」といふ言葉にどんな意味をもたせたらよいか?
また、「戯曲的」「演劇的」等の語も、今日では、大体、旧来のままの意味で使つてゐるが、若しそれが「戯曲乃至演劇の本質的生命」を指すのであつたら、それを使ふ人の「演劇本質論」を一応訊ねてみる必要がある。
これらは何れも、専門
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