なり深く浸み込んでゐたやうに思ふ。例へば、英語ならば「英米人のやうに」書ける、喋れるといふことが、英語学習の理想であつた。ところがそんなことは馬鹿々々しいことだから、よほどどうかした人でないと一生懸命にはなれない。結局それを諦めて、日本人としてまづ可能な方向にゆく、といふのが自然であらう。「外国人のやうに」喋ることが一番うまい喋り方であり、最も理想的な会話であると考へてゐるために、そこまで自信のないものは、つい喋るといふことが自尊心を傷けるわけだから、なるべく下手に口を利かないやうにする。それを敢てするものは最も安易な程度の外国語を「操る」ことで満足してしまふ結果になる。例へば、日常の挨拶の仕方を非常によく心得てゐるとか、或ひはまた実に月並な俗語を連発するか、要するに外国人の口真似をすることが、いはゆる上手に外国語を操ることであるとされる。その結果、日本人が日本人としての能力でもの[#「もの」に傍点]を云ふよりも、非常に単純な低調なことしか云へなくなるのである。手紙などを書く場合も同様で、外国人のやうな手紙を書かうとするから、結局は外国の無学な女か子供の書くやうな手紙になつてしまふ。し
前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング