《はたち》になつたばかりさ。雄図勃々といふ時代だ。石炭倉の中で、英語をコツコツやつてた頃だ。
女  そんなら、女の話どころぢやなかつたでせう。
男  さうよ。だから、ほかの奴が、誰はかう彼はかうと、女の名前を云ふんだが、おれは、いちいち、名なんか覚えてやしない。ところが、あいつの名だけは、不思議に覚えてゐる……今でも……。
女  なんていふの?
男  待て……(考へて)おるい……おるい……さうだ。たしか、おるいだ。
女  あなた、さう云つて、訊いて御覧なさい。
男  そんなことを訊《き》いてなんになる。お前の亭主が昔□□丸の火夫だつたつていふことが、あいつに知れるだけだ。
女  今はさうぢやないんだからいゝぢやないの。
男  なるほど、火夫が出世をして税関吏になつた。あの女は、昔のおれに、火夫のおれに会ひたかつたと云ふよ。さうだらう、あいつにしてみれば、このおれに、以前のことを知られてゐるのが、ちよつと、やりきれないかも知れん。向うで気がつかない以上、黙つててやるのがほんたうだらう。
女  何処で誰に遇ふかわからないものね。
男  お前なんかには、それが、なんかの運《めぐ》り合せみたい
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