つてました。母はまた、その話を、誰かからも聞いたつて云ひますから、つまり、常習犯なんですね。
夫人  道理で、手に入つたもんでしたわ。しかし、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]ぢやないでせうね。
京野  さうなると、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]の方が面白いんぢやないですか。
夫人  あゝ、変な気持だ……。あたくし、食事をすまして来ますわ。

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夫人が去つた後、京野は、椅子に腰をおろす。
菅沼るいが、あたふたと現はれ、再び蓄音機の傍らに陣取る。
眼をつぶつて、レコードに聴き入る。
[#ここで字下げ終わり]

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京野  おい、婆さん、もういゝ加減に止《や》めろよ。だあれも聴いてやしないや、そんなもの。
るい  でも、九時までが時間でございますから……。
京野  よし、よし、ぢや、かまはないから、もつと騒々しいやつをかけてくれ。

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るいは、蓄音機を止め、レコードをヂャズにかけかへる。
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るい  若様は、賑やかなことがお好きさうに見えますが、それでは、なほさら、御病気が苦《く》におなり遊ばしませう。このホテルも、夏場はあの通り込み合ひますんですが、夏はまた夏で、ほかへお出かけ遊ばすんでございませう。
京野  (返事をしないで、煙草の煙を吹き上げてゐる)
るい  折角、お馴染《なじ》みになりましたお客様が、ぷいとお発《た》ちになつてしまふのは、ほんとに心細うございます。これが船でございますと、前もつて、お別れする日がわかつてをります。いろいろのお世話も、その日までといふ心組みで、万事、手ぬかりも少うございますが、まだおいで下さるものと思つてゐた方《かた》が、不意に今日帰るなどとおつしやられますと、何かしら、ドキンと胸に応へます。きつと、「さあ、しまつた」と思ふことがございますんです。今夜はシーツをお代へしようと思つてゐたのにとか、明日は、お望み通りのお部屋が空《あ》くのにとか、そんなことが、妙に何時《いつ》までも気にかゝりますんです。
京野  …………。

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最初の、夫婦連れが、これも食事を済ましてはひつて来る。
左手の椅子に、並んで腰をかける。二人は、時々、るいの方を見る。
京野は、扉をあけて、庭の方に降りる。帳場の方で、呼鈴が鳴る。
るいは、慌てて、その方へ行く。
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女  (るいの後姿を見送つて)やつぱり、さうですか?
男  さうらしいね。えらく肥つたが、何処かに見覚えがあるよ。
女  船に乗つてゐたつていふんなら、さうにちがひないわ。向うは、気がつかないかしら……?
男  だつて、お前、口を利《き》いたこともなし、一度や二度、多勢の中で顔を見たぐらゐぢや、さう特別に覚えてゐるわけがないさ。向うは、そこへ行くと、僅か五六人の女のうちだ。その一人一人が、噂に上るんだ。あいつは、たしか一番年増で、一番不縹緻だつた。そこへもつて来て、変に行儀がいゝと来てるから、男たちは、そばへ寄りつきもしないのさ。
女  あの人、幾つぐらゐだつたの、その頃は?
男  さあ、あれで、三十にもなつてたかな。おれは、間もなく、その船を降りちまつたから、あとのことは知らないが、十六年も船にゐたといふんだから、辛抱は大したもんだ。なるほど、年を繰つてみると、丁度、その時分だ。おれは、やつと、二十《はたち》になつたばかりさ。雄図勃々といふ時代だ。石炭倉の中で、英語をコツコツやつてた頃だ。
女  そんなら、女の話どころぢやなかつたでせう。
男  さうよ。だから、ほかの奴が、誰はかう彼はかうと、女の名前を云ふんだが、おれは、いちいち、名なんか覚えてやしない。ところが、あいつの名だけは、不思議に覚えてゐる……今でも……。
女  なんていふの?
男  待て……(考へて)おるい……おるい……さうだ。たしか、おるいだ。
女  あなた、さう云つて、訊いて御覧なさい。
男  そんなことを訊《き》いてなんになる。お前の亭主が昔□□丸の火夫だつたつていふことが、あいつに知れるだけだ。
女  今はさうぢやないんだからいゝぢやないの。
男  なるほど、火夫が出世をして税関吏になつた。あの女は、昔のおれに、火夫のおれに会ひたかつたと云ふよ。さうだらう、あいつにしてみれば、このおれに、以前のことを知られてゐるのが、ちよつと、やりきれないかも知れん。向うで気がつかない以上、黙つててやるのがほんたうだらう。
女  何処で誰に遇ふかわからないものね。
男  お前なんかには、それが、なんかの運《めぐ》り合せみたい
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